去る3月9日、第72回下関天使幼稚園の 卒園式が生涯学習センター「風のホール」で開 催された。3,4年前、泣き虫だった園児が、下の学年に入ったお友達を、実の兄弟姉妹の ようにお世話する姿を見て、感動を覚えたものだが、一人一人の卒園児の親御さんにとって、子どもたちの目を見張るような成長ぶり は、どれほど大きな感動を与えただろうか。流 されたたくさんの涙は、ただ、子どもたちの成 長に対してではなく、子どもたちが過ごした 年月、また、そこで出会った仲間、そして、お 世話になった先生たちとの別れを惜しむ涙だったに違いない。
折しも、教会は、復活祭を迎えるための準備 の期間、四旬節を過ごしている。四旬節は、一 年で最も大事で、信仰の核心である主イエス の復活をふさわしく迎えるための準備の時で ある。復活祭に洗礼を受ける方々とともに、これまでの生き方、考え方、身の振り方に別れを 告げ、新しい人としてキリストを着、キリスト のように生きる決意をする時である。そこに は、当然、今までの自分との訣別を痛む心もあろう。復活祭の前に置かれた受難の週は、単なる時系列上の出来事を記念する時ではない。
人々が経験する苦しみ、痛み、悲しみのすべて を味わいつくされた主の苦しみに与りながら、 自分自身も、そうした自分を縛っている、様々 な手かせ・足枷から自由になり、より広い心で 主の命に生きる転換の時である。
ルカは、「苦しみを受けて栄光に入る」という表現で、その神秘を表現する。しかし、これ は誤解を生みやすい表現である。苦しみの後 に、あたかも報いのように栄光が与えられる のではない。むしろ、苦しみと栄光は不可分な 関係、表裏の関係にあることを悟らなければ ならない。苦しみから逃げず、そこに、とことん身を置いたとき、上から、神から、救いが、 光が、栄光が予期せずして訪れる、そうした神 秘が「過ぎ越し」の意味ではないだろうか。そ のような経験を通して、人間は、単に、過去の 自分と訣別するのではなく、むしろ、それを通 して、あらたな次元へと導かれる、あらたな出 会いへと導かれるのである。あらたな自分だけでなく新たなかたちでの人々との出会い、 絆、つながりが生まれる。それこそが教会である。
子どもたちが、懐かしい学び舎を去り、親しくなった仲間と別れ、それぞれの道を歩き始 めるのは、一面で寂しいことだが、それによって、人生のあらたな段階に進み、より多くの仲 間との絆を結び、大きく成長してゆくように、 わたしたち信仰者も、過ぎ越しの経験を通して、より新しい自分として、より豊かで深みの ある教会を生み出す力となれるよう祈りたい ものだ。
作道 宗三 神父
