5月末の聖霊降臨の主日で復活節が終わり、 年間の季節に入っている。典礼の暦からすれ ば、晩秋の待降節まで、大きな祝いもなく、まさに平常の日々を送ることになる。日本の暦 からすれば、ハレの時が終わり、ケのときを過ごす時期である。ハレの時には、人々の気分も 高揚し、それなりに生きがいや喜びを強く感 じるが、一旦ハレの季節が終わりケになると、 目標を失ったような、張り合いを感じられなくなることもまれで ない。スポーツが盛んな現代、わたしたちの日常には、様々 な試合が連日のよう に報道され、サッカーが終われば、ラグ ビー、それが終われ ばバレー、野球、その 間に相撲。これだけでも、1年中、ハレが続いているような錯覚を 持たされる。ハレは大事だが、あくまで非日常 であり、いつまでも続くものではない。
わたしたちを取り囲み、その中で生きている自然の営みには、大きなリズムがあり、季節 の移り変わりに自らの営みを合わせることも 少なくない。農耕に携わる人はもちろん、自然 を身近に感じない都会に住む人にとっても、 季節は少なからず、生き方に影響を与える。寒い冬が去って春が来れば、気持ちも明るくなるし、喜びを体で感じることができる。梅雨、 そして、蒸し暑い夏となれば、何とか季節が早く移ることを願わずにはいられない。厳しい冬を迎える秋には、実りの喜びとともに、去り ゆくものへの思いも深まるものである。
イエスの生涯は、大半が日常だった。公生活 に入っても、ガリラヤの生活は、日常が多くを 占めていた。受難と死という、非日常とも言うべきエルサレムでの日々は、生涯のごくわずかな期間だった。そんな日常の中でも、イエス は、その時をいかに過ごすか、範を示してくださった。人々と交わり、教え諭し、癒しの業に 明け暮れる日常の中に、必ず、父との密接な時 をもつことを怠らなかった。働きと休み、労働 と憩い、仕事と祈り、人間の生活に欠かすこと のできない要素がそこ には、しっかり位置づけられていた。仕事に専念 するものは、いつも「時」 に追われている。期限が あり、締め切りがある。 仕事がなくなり、集中するものがなくなった時、 人は「時」から解放され たようで、実はもっぱら、いつ訪れるともしれない「時」を待つだけの存 在になる。
ケをいかに生きるか、それは、人間だれにとっても大きな課題であり、それを身に着けた ものが、より豊かな命を生きることになるの ではないか。見せかけのハレに踊らされるの ではなく、真のハレを知る恵みを受けた者と して、「待つ」ことの多い日常を大切に生きる 恵みを祈ろう。
作道宗三神父
