晩秋に思う

 本格的な冬が訪れる前の11月、教会は、この世の生を全うされた兄弟のために祈る時を もつようにと、昔から死者の日を守ってきました。死者の記念は、毎日のミサでも欠かすことはありませんが、この日に、あらためて、先 だった兄弟に思いを向けることは、日々生活 に追われるわたしたちに、より大事なことを 思い起こさせてくれます。死という現実は、か つて、人間の日々の営みと深いつながりがありましたが、現代では、進んだ医療技術の結果、寿命が延び、人は自分の家ではなく病院で亡くなることが多くなり、 突然の事故や災害でもない限り、人の死は、どこ か、縁遠い世界のことに 思われるようになりまし た。

 しかし、たとえ、人々 の日常から死が遠のいた としても、人間の世界から死がなくなったわけではありません。理由 が何であれ、身近な方、愛する方が他界される と、人は言葉には表せない寂しさ、悲しさに襲 われ、人間の無力さ、惨めさをとことん味わわされます。亡くなられた方との絆が深ければ 深いほど、死が生み出す溝は、越えることが出 来ないものとして人に迫って来ます。それは、 ともすれば、人をあきらめと絶望へと人をいざないます。

 人類は、その初めから、自分たちの間から取りさられた兄弟のために、弔いという形で祈りをささげてきました。それによって死者が この世界に戻って来るわけではありません。 祈りを通して、死者がこの世界から姿を消したことを悲しむと、同時に、故人がこの世界に 生きた日々を想起し、その存在を再確認して きたのです。多くの文化に共通する通夜(wake) は、そのことなしに、死者の生きた証しがどこにも残らないとの思いからでしょうか。死者のために墓を建てる習慣は、そうした思いの 延長上にあるのかもしれません。しかし、「千 の風になって」の詩にあるように、死者は墓の 中にはいない、と人はどこかで感じています。 死者は、生きていたときとは違う形で、今も、どこかに生きていると。

 教会が死者のために祈るのは、こうした思い と無縁ではありません。教会が死者を弔う時、 亡くなられた方だけでな く、人間として死をも味わわれた方、神の子イエスの 死と復活を必ず思い起こします。復活祭のはじめに、 復活徹夜祭(Easter Vigil) を設けて、夜を徹して主の 死を悼み、その苦しみと死 を通して、人間の犯した罪が赦され、新しい命、復活の命がもたらされた ことを感謝の内に味わうように、教会は、亡くなられた方のご生涯を想い、その人生を通してもたらされた大きな恵みに感謝し、とりわ け、故人が、先に復活された主イエスのいのち に与る恵みをいただくことを願い、感謝と賛 美をささげるのです。

 慰霊の祈りをささげるとき、死という厳しい現実に、主イエスの死と復活によって、全く 新しい意味と希望がもたらされたことをあら ためて心に刻む恵みを願いましょう。

作道 宗三 神父

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