聖木曜日、主の晩餐、2026年

みことばの典礼はこちら

字幕は「㏄」をクリックしてご覧いただけます。

 皆さん、こんばんは。
 今夜、私たちは一年の中でも特に深い意味をもつ「主の晩餐」の神秘の中へと招かれています。主イエスが十字架へ向かう前の最後の夜、弟子たちと共に囲んだ食卓。その場で主イエスは、私たちの救いのためにご自分を差し出す「聖体の秘跡」を与え、さらに弟子たちの足を洗うという、誰も想像しなかったほどのへりくだりの愛を示されました。聖体と洗足、この二つの行いは、主イエスの心そのものを表しています。自分を与える愛、そして低くかがんで相手を受け入れる愛です。

 第一朗読では、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放された「過越」の出来事が語られました。神はいつも、縛られた者を自由へと導く方です。第二朗読では、聖パウロが「これは、あなたがたのための、わたしの体である。わたしの記念として、このように行いなさい」と語り、私たちが聖体を祝うたびに、主イエスの愛と救いの業を世に告げ知らせる使命を思い起こさせます。そして福音では、主イエスが弟子たちの足を洗う場面が描かれ、私たちの心に深く問いかけてきます。

 特に、主イエスとペトロのやり取りは、今日の私たちの信仰生活にとても近い姿を映し出しています。ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。わたしの足など、決して洗わないでください。」と言いました。彼は自分の足は汚れていないと思っていたのかもしれません。あるいは、自分は決して主を裏切らないと信じていたのかもしれません。しかし主イエスは静かに言われます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたは、わたしと、何のかかわりもない、ことになる。」

 この言葉は、私たちの心の奥にある真実を照らします。
 私たちは時に、自分は大丈夫だと思い込んでしまいます。弱さを見せたくない、欠けを認めたくない、汚れた部分に触れられたくない。けれど主イエスは、私たちが隠しているその部分にこそ、そっと手を伸ばしてくださる方です。私たちが「洗っていただく」ことを拒むとき、実は主イエスの愛を拒んでしまっているのかもしれません。

 「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
 この言葉には深い意味があります。主イエスは、私たちに欠けのない完璧さを求めておられるのではありません。むしろ、弱さを抱えたまま、ありのままの姿で主イエスの前に立つことを望んでおられます。清くない部分があるからこそ、主イエスはかがんで私たちの足を洗ってくださるのです。

 実際、洗足式で代表として選ばれた方々の中には、「足は汚れていないから大丈夫ですよ。洗足は要りません。」と冗談めかして断る方もおられます。その気持ちはよく分かりますが、どこかペトロの姿と重なります。私たちは皆、どこかで「自分は大丈夫」と思いたい。でも主イエスは、私たちが隠したい部分にこそ触れ、癒し、受け入れ、共に歩もうとしてくださいます。

 主イエスは弟子たちの足を洗った後、「わたしがしたように、あなたたちも互いにしなさい」と言われました。
 人を助けること、奉仕することは簡単に見えるかもしれません。しかし、相手をあるがままに受け入れ、見返りを求めず、心を低くして仕えることは、決して容易ではありません。奉仕は行動だけではなく、心の姿勢です。へりくだり、赦し、相手の弱さを抱きしめる姿勢がなければ、主イエスの望まれる奉仕にはなりません。

 今夜、主の晩餐の神秘の中で、私たち一人ひとりが主イエスの前に静かに立ち、こう祈ることができますように。
 「主よ、どうか私の足を洗ってください。私の弱さに触れてください。あなたの愛で満たしてください。」
 そして、主イエスがしてくださったように、私たちも互いにかがみ、互いに支え合い、互いに赦し合う者となれますように。

 聖体は、主イエスの愛そのもの。
 洗足は、その愛がどれほど低く、どれほど深く、どれほど優しいかを示すしるしです。
 この愛に触れながら、私たちが歩む三日間が、心からの回心と新しい希望へと導かれますように。
 アーメン。

» 神父の話 » 聖木曜日、主の晩餐、2026年