だれも一人で舟に残してはならない

2026年(1月7日―8日)初めに開催された枢機卿会議の開会にあたり、ティモシー・ラドクリフ枢機卿(O.P.)は、福音に基づく深いメッセージを教会全体に語りかけました。それは、「だれも一人で舟に残してはならない」という招きです。イエスが湖の上を歩かれる場面を黙想しながら、枢機卿は、現代の教会が直面する課題の中で、互いに支え合い、共に歩むことの大切さを示されました。

この言葉は、世界の枢機卿たちだけに向けられたものではありません。むしろ、私たちのような小さく、多文化で、時に孤独を感じやすい日本の教会共同体にこそ響くメッセージです。忙しさの中で信仰が弱まりやすい社会、司祭不足や高齢化が進む現実、そして移住者が増える中での新しい課題。こうした状況の中で、「共に舟を漕ぐ」という呼びかけは、私たちの歩みに光を与えてくれます。

ラドクリフ枢機卿のメッセージを通して、私たちは自分自身と共同体を振り返ることができます。
— だれかを一人にしていないだろうか。
— 自分は岸辺に立ったまま、傍観者になっていないだろうか。
— 共同体の嵐に、真実と愛をもって向き合っているだろうか。

ラドクリフ枢機卿のメッセージを共に味わいながら、下関の教会共同体もまた、主に導かれ、希望をもって前へ進むことができますように。

ペトロに寄り添う ― 教皇とともに歩む務め

ティモシー・ラドクリフ枢機卿(O.P.)

マルコ6・45-52

私たちはこの枢機卿会議において、教皇が普遍教会に対して果たされる務めを助けるために集められています。では、どのようにしてその務めを果たすのでしょうか。明日、レオ教皇は当日の福音、すなわちマルコによる福音書にある「五千人への給食」について説教されます。その直後に続く「イエスが湖の上を歩かれる場面」は、私たちの使命についていくつかの手がかりを与えてくれます。

イエスは弟子たちに「先に向こう岸へ行きなさい」と命じられました。ペトロは嵐の中を一人で進んではなりません。これが私たちの第一の従順です。すなわち、現代の嵐に直面するペトロの後継者とともに、ペトロの舟に乗ることです。「今日は航海したくない」とか「別の舟を選びたい」と言って浜辺に留まることはできません。イエスは山上で一人祈っておられましたが、ペトロは決して一人であってはならないのです。

ヨハネはこう書いています。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(1ヨハネ4・12)。もしペトロの舟が争い合う弟子たちで満ちているなら、私たちは教皇の助けにはなりません。たとえ意見が異なる時でも、愛のうちに平和を保つなら、神はたとえ不在のように見える時でも確かに共におられます。

嵐の中、イエスは山の上で遠く離れておられましたが、福音は「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、」と語ります。主のまなざしは常に彼らの上にあります。まるでイエスは、弟子たちにご自身の「不在」を体験させたいかのようです。主は急がれません。弟子たちが疲れ果てるまで待たれます。この不在の体験こそ、彼らが想像もしなかった親密さへと備えるものです。主は舟に乗り込んでくださるのです。

私たちも時に、孤独や燃え尽き、疲労を感じることがあるでしょう。しかしイエスは私たちを見つめ、これまで以上に近づいてくださいます。だから恐れる必要はありません。私たちの時代もまた、刃物による犯罪から戦争に至るまで、暴力が増し、富める者と貧しい者の隔たりは広がり、第二次世界大戦後に築かれた世界秩序は崩れつつあります。人工知能が何をもたらすのかも分かりません。不安を覚えるのは当然です。

教会もまた、性的虐待や思想的分裂という嵐に揺さぶられています。主は私たちに、浜辺で臆病に待つのではなく、これらの嵐のただ中へと漕ぎ出し、真実に向き合うよう命じておられます。この枢機卿会議でその務めを果たすなら、主が私たちのもとに来られるのを目にするでしょう。浜辺に隠れていては、主と出会うことはできません。

マルコは奇妙な一言を記します。「〔イエスは〕そばを通り過ぎようとされた」。ギリシア語の「通り過ぎる」という語は、「死ぬ」ことと結びついています。英語の “passing away” と同じです。ここには聖週間の型が見られます。五千人への給食という食卓の交わり、イエスの不在、そして突然の現れ。ガリラヤ湖上で弟子たちはすでに主の死と復活を先取りして生きているのです。これは四千人への給食の後にも繰り返されます。

マルコにおいて、復活はまったく新しい出来事であると同時に、典礼年の中で何度も繰り返し生きられるものです。『福音の喜び』は、キリスト者の生活が「記憶」と「神の尽きることのない新しさ」によって支えられていると語ります。アウグスティヌスは「神はいつも私たちより若い」と言いました。

この枢機卿会議では、伝統を大切にする「記憶の担い手」もいれば、神の驚くべき新しさに喜びを見いだす者もいるでしょう。しかし、記憶と新しさはキリスト者の生のダイナミズムの中で切り離せません。主がなさった偉大な業の記憶に根ざしつつ、常に新しい恵みに心を開く時、私たちの議論は生き生きとしたものとなります。そこに競争はありません。

弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」ために、主の行動に驚きました。聖書において「心」は感情ではなく思考の座です(感情は「はらわた」にあると考えられていました)。ある兄弟はこう言いました。「聖書ではすべてが50センチ下で起こる…」。

弟子たちは五千人に食べ物を配りましたが、依然として「計算の論理」に囚われていました。彼らが差し出せたのは五つのパンと二匹の魚だけ。しかし神の国の論理では、彼らの小さな献げ物は何千人にも十分でした。収穫の主は、彼らの差し出すものを用いて奇跡を行われるのです。

私たちも、世界と教会が直面する巨大な課題の前で、自分たちには差し出せるものがほとんどないと感じるかもしれません。私たちの言葉や行動が何の役に立つのか、と。しかし神の恵みがあれば、私たちの小さな献げ物は十分以上となります。だから心をかたくなにせず、計り知れない神の賜物に心を開きましょう。主は、私たちが手と耳を開くなら、量りしれない恵みを注いでくださいます。

原文:英語、”Ordo Praedicatorum”より

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