聖金曜日・主の受難・2026年

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 皆さん、
 昨日から私たちは聖なる三日間に入り、今夜、主イエスの受難を静かに見つめています。十字架の上で苦しみ、打たれ、侮辱され、最後には「渇く」と叫んで息を引き取られたそのお方が、本当に神の子であると想像できるでしょうか。ただの罪人のように扱われ、ただの囚人のように見えるその姿の中に、私たちはどれほどの愛を見ることができるでしょうか。少し心を静めて、その問いを胸に置いてみたいと思います。

 第一朗読のイザヤ書は、神のしもべが不当な苦しみを受ける姿を語ります。無実なのに打たれ、民から切り離され、悪人と共に葬られる。しかしイザヤは、「その苦しみによって、多くの人が義とされる」と言います。なぜ無罪の人が、他人の罪を背負わなければならないのでしょう。なぜ神のしもべが、ここまで辱められるのでしょう。その理由はただ一つ、愛のためです。救うため、赦すため、そして私たちを神へと連れ戻すためです。

 ヘブライ人への手紙は、主イエスが「涙を流し、叫びながら」祈られたと語ります。神の子でありながら、恐れを知り、痛みを知り、孤独と不安を知っておられた主イエス。その姿は、私たちの弱さを深く理解してくださるお方の姿です。今、私たち自身の心にも、叫びたい祈りがあるでしょうか。主イエスはその祈りを静かに受け止めてくださいます。

 ヨハネによる受難の物語は、人間の残酷さをはっきりと示します。権力の不正、群衆の暴力、友の裏切り、そして神の沈黙。この沈黙は、神が何もしていない沈黙ではありません。むしろ、救いの業が最も深く行われている沈黙です。私たちの人生にも、「なぜ神は沈黙しておられるのか」と思う瞬間があります。その沈黙の中に、神の愛が隠れていることを、今夜もう一度思い起こしたいと思います。

Shimonoseki Catholic
カトリック彦島教会・祭壇の十字架

 今日の世界にも、不正、嫉妬、敵意、そして理由もなく誰かを責め立てる群衆の姿があります。苦しんでいる人たちの中には、誰にも理解されず、誰にも守られず、ただ耐えている人がいます。もしかしたら、神はその苦しみを通して誰かを救っておられるのかもしれません。その「誰か」とは、もしかすると私たち自身かもしれません。そして私たち自身の苦しみもまた、誰かの命を支え、誰かの心を照らしているのかもしれません。少しだけ、その可能性に心を開いてみたいと思います。

 私たちの周りには、さまざまな理由で苦しんでいる人がたくさんいます。病気、孤独、家庭の問題、心の傷、将来への不安…。その一人ひとりのために、私たちは祈りたいと思います。信仰のうちに歩み続ける力を、そして決して神の愛への希望を失わないようにと。今夜の祈りの中で、そっと彼らを思い起こしてみませんか。

 今夜、私たちができることは一つ、主イエスのように神にすべてをゆだねることです。神はすべてを新しくすることができるお方。死をも越えて命を与えることができるお方です。聖女テレジア(幼きイエスのテレジア)は、小さな苦しみをすべて宣教のために捧げました。アジアのため、ベトナムや日本のためにも祈り続けました。若き聖カルロ・アクティスも、白血病の痛みをすべて聖体にささげ、教会の一致と教皇のために祈りました。彼らは苦しみを避けませんでした。苦しみを愛に変えたのです。

 今夜、私たちは十字架の前で静かに頭を下げます。その瞬間、心の中でそっと祈りましょう。

 「主イエスよ、私は十字架のすべてを理解できません。でも、あなたが私を愛してくださることを信じます。私の苦しみを、あなたの愛のために、そして兄弟姉妹のためにお使いください。」

 十字架は終わりではありません。十字架は新しい命の始まりです。今夜の沈黙の中で、その命が静かに芽生えています。

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