新しい一年の始まりに、私たちは主の洗礼の祭日を迎えています。イエスがヨルダン川に降り、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた出来事は、イエスの公生活の第一歩であり、救いの福音が世界に向かって開かれていく決定的な瞬間でした。しかし、この出来事は二千年前の物語ではなく、2026年の日本に生きる私たちに深く語りかけています。特に、現代社会の中で歩む私たちの教会にとって、今日の福音は新しい光を投げかけています。
ヨルダン川は、罪や疲れ、癒しへの渇きを抱えた人々が集まる場所でした。もし今日、私たちが「現代のヨルダン川はどこにあるのか」と問うなら、それは遠い中東の川ではなく、今の日本社会のただ中に静かに流れています。孤独に苦しむ高齢者、将来に不安を抱える若者、家族のつながりを失いかけている人々、そして異国で言葉や文化の壁に悩む外国人。誰にも言えない重荷を抱えながら、助けを求める声を上げられずにいる人がたくさんいます。年明けから続く自然災害や経済の揺らぎは、多くの人の心に不安の影を落とし、「明日どうなるのか分からない」という思いを深めています。さらに、日本に来た多くの外国人は、在留資格の不安、職場での孤立、文化の違いの中で、見えない川の流れに逆らいながら必死に立ち続けています。物質的には満たされていても、心の深いところで「何のために生きるのか」と問い続ける人も少なくありません。これらすべてが、現代のヨルダン川です。
そして驚くべきことに、イエスは今日もその川の中に立っておられます。福音が伝える最も衝撃的な事実は、イエスが川のほとりではなく、川の中に入られたということです。罪のない方が、罪人の列に並ばれました。疲れた人、迷っている人、癒しを求める人と同じ場所に立たれました。イエスは「上から教える」道ではなく、「共に立つ」道を選ばれました。もしこの姿を今日の日本に重ねるなら、イエスは孤独の中にいる人のそばに立ち、将来に不安を抱える若者の隣に立ち、異国で苦しむ外国人の肩にそっと手を置き、家庭の問題で涙する人の沈黙に寄り添っておられるでしょう。私たちが避けたくなるような場所にこそ、イエスは静かに降りて来られます。そして言われます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
このイエスの姿は、私たちに大切なことを教えています。人との距離を縮め、近づく勇気を持つこと。弱い人のそばに立ち、ただ助けるだけでなく「共にいる」こと。そして、自分の力や計画に頼るのではなく、聖霊に導かれて歩むこと。イエスは洗礼の後、聖霊に満たされ、導かれて宣教活動を始められました。私たちの教会も、まず聖霊の風を受けることから始まります。
現代社会の中で歩む私たちの教会には、特別な使命があります。教会が現代のヨルダン川となり、誰でも来られる場所、心を開ける場所、癒しと希望を見いだせる場所となること。日本人も外国人も、若者も高齢者も、互いに顔を見て話せる出会いの場を大切にすること。祈りと典礼を深め、疲れた心を癒し、聖霊の風を呼び込むこと。そして、困っている人に手を差し伸べるだけでなく、「あなたは一人ではない」と伝える教会になることです。
ヨルダン川で天が開き、父である神は言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この言葉は、今日ここにいる一人ひとりにも向けられています。私たちは愛され、選ばれ、そして遣わされています。2026年の歩みの中で、私たちの教会が、イエスが立たれたあのヨルダン川のように、人々が希望を見いだす場所となりますように。神の祝福と聖霊の導きが、私たち一人ひとりの上に豊かに注がれますように。
