エリ、エリ、レマ、サバクタニ

受難の主日(枝の主日)A年

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 皆さん、今日、私たちは「受難の主日(枝の主日)」を迎え、主イエスのエルサレム入城と、その後に続く受難の出来事を思い起こします。人々の歓声に迎えられた主イエスは、数日後には侮辱され、見捨てられ、十字架へと向かわれました。この二つの出来事は、今の世界の現実と深く響き合っています。

 今年、世界では戦争と暴力が続き、多くの人々が苦しんでいます。イランでは緊張が高まり、ウクライナでもミャンマーでも平和はまだ見えていません。家族を失い、住む場所を失い、未来を奪われた人々の叫びは、私たちの耳にも届いています。今日読まれた受難の物語の中で、主イエスが殴られ、嘲笑され、十字架にかけられた姿は、まさに今の世界で苦しむ人々の姿そのものです。主は遠くから見ておられるのではなく、苦しむ人々と共に苦しんでおられます。

 日本でも、静けさの裏に深い痛みがあります。先週(3月26日)の朝日新聞の一面には「生きていて良かった 伝えたい」という記事が載りました。しかし、その背景には、昨年、五百人以上の小中高生が自ら命を絶ったという、胸が締めつけられる現実があります。誰にも言えない孤独、助けを求める声が届かない社会、「生きる意味が見えない」と感じる若者たち。主イエスもまた、孤独の中で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」主は、私たちの弱さ、恐れ、孤独を深く理解しておられます。

 十字架の上で、主イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。一見すると、神への嘆きや失望の言葉のように聞こえます。しかし実際には、これは詩編の祈りであり、苦しみのただ中でも神を信頼し続ける祈りです。極限の痛みの中でも、主イエスは父である神の救いの計画を信じ抜かれました。信仰とは、感情に左右される一時的な気分ではありません。信仰とは、どんな状況でも神を選び続ける「決断」です。すべてが暗く見える時でも、神を信じることを選ぶ。理解できない時でも、神に身をゆだねることを選ぶ。私たちもまた、主のように、信じることを選ぶ力を願いたいと思います。

 主イエスは暴力に暴力で返すことなく、侮辱に侮辱で返すことなく、ただ愛と赦しをもって十字架を歩まれました。その姿は、絶望の中に差し込む希望の光です。へりくだること、心を改めること、赦すこと。これらは弱さではなく、世界を変えるための神の力です。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。その祈りは、今も戦争の地で、孤独の中で、涙の中で響き続けています。

 しかし、私たちの心には一つの問いが残ります。なぜ、あれほど多くの良いことをされた主イエスが、最後には人々から侮辱され、十字架につけられなければならなかったのでしょうか。この問いは、今も私たちの心に響き続けています。そしてその問いは、私たち自身への問いにもつながります。「私は主のために何をしてきたのだろうか。今、私は主のために何をしているのだろうか。これから私は主のために何ができるのだろうか。」

 この一週間、私たちは主イエスの受難の道を共に歩みます。主の心に触れ、主の思いを感じ、主が示されたへりくだり、回心、赦し、そして信じ続ける決断を、私たちの生活の中でどのように生きることができるのかを静かに考える時です。世界が傷つき、日本が孤独を抱え、私たち自身も弱さを抱えている今こそ、主の十字架は私たちに語りかけています。「私はあなたと共にいる。あなたの苦しみの中に、私は共にいる。」

 どうかこの枝の主日から始まる一週間が、主の愛に心を開き、小さな一歩でも回心と赦しを実践することができる恵みが与えられますように。主よ、私たちの信仰を強めてください。アーメン。

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