林尚志
「中道改革連合と言う新党が出来たね」冗談ぽいけど次のような連想をしました。
細江教会に辿り着いて、中道を行ったら、公園に落ちて進み海峡に落ちてしまう!(笑)
真ん中進まず左に行く左派右に行く右派。どちらにしますか?私は普段左派ですが、教会に着いたら右派、右へ行きますよ。これは聖堂に入って聖体訪問をしますと言う意味です。
もう20年以上前ですが、日本のイエズス会の教会司牧分野の司祭達が広島に集まり、研修会をしました。最後に、参加されていた東京の信徒に、何か感想・意見があれば話してくださいと司会者が頼みました。その人は「お祈りの形で申し上げますと」と言われ、静かに手を合わせて目を瞑り祈られました。「神さま、私は悲しいのです。最近聖堂で祈っていられる司祭の姿があまり見えず、私は寂びいのです」と。シーンとしてしまったことを思い出すのです。司祭達皆自分の事を振り返ったからです。
それで、細江教会に着いたら先ず聖堂でお祈りしてから、事務室・司祭室・信徒の場に行きます。この意味で先ず右へ行く右派なのです。
他の教会に行くときのあまり先ず聖堂には行かなくなっています。山口でも集まりなどあっても、ミサがある時は兎も角、時々しか聖堂には行きません。祈りは何処でもできる。そうです。確かに。
でもせっかく聖堂があるのですから、日常生活でなかなか出来ない聖堂で神さまと向き合う恵みを受けたいです。
「向き合えばいのち流れる」:忙しいので教会に来ても聖堂で向き合えない。矢張り忙しいのは、心が亡びると書くように。いのちの流れが弱く成り、真の元気・生命力が弱く成る事ですかな。聖堂で聖体の前で神と向き合う。そこで与えられる向き合いからの光と力は、新しいいのちの源泉ですね。
もう40年以上前の事、北九州黒崎の援助会経営の老人の為の施設で働く職員の方々の短い黙想会で「回心」について話をしました。改心(回心)とは神さまに心を回し行いを改める事と。すると話し終わって、おばさん(職員達)が詰め寄るように全員で来られて、言われました。私達は回心でなく「回足」ですと。説明は、毎日入所者の部屋を診回る時、色々例えば容態を聞いたりしますが、足先は心持急ぐのか、診回る人に向かず半分次の人・外に向っている。一人一人の方へとしっかり向き合わず自己都合の中途半端な向き合いですと。しっかりの唯一の人としての尊厳を持つ相手に「回足」が必要を言われたのです。いまも深く思い巡らしています。
日々の生活の中で神様と向き合い、神さまが生きて働かれている一人一人の隣人と向き合う恵みを願いたいです。そして勿論さらに、鋏でちょん切られて祭壇の前に生けられている花々にも向き合いたいです。いのちささげて咲き賛美している花々と向き合う時、感謝と敬意が湧き出てきます。 神さまと向き合いその光・愛を受けること、左派も右派も中道も「向き合えばいのち流れる」信仰の現実への感謝と生きがいを受けて、日々喜びをもって生きていきましょう。
