聖ラウレンチオ助祭殉教者から学ぶ

聖アウグスティヌスの説教

 今日、ローマ教会は聖ラウレンチオの勝利を祝います。彼は激しく襲いかかるこの世を踏みしめ、甘い誘惑を退けました。悪しき者は彼を二度も攻撃しましたが、どちらも失敗に終わりました。ローマ教会で助祭として奉仕し、キリストの尊い御血に仕え、そしてキリストの名のために自らの血を流した人――それが聖ラウレンチオです。聖ヨハネは「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と語っていますが、ラウレンチオはこの言葉を深く理解し、実際に生き抜きました。主がご自身を食卓で与えてくださったように、彼もまた自らの命を他者のために捧げました。生きているときにはキリストを愛し、死に際してはキリストにならって自らを捧げたのです。

 では、私たちはどうでしょうか。もし心から主を愛するなら、私たちもキリストを模範として歩むべきです。キリストは私たちのために苦しみ、その生き方を「あなたがたも従いなさい」と示してくださいました。殉教者たちはキリストに従い、血を流し、苦しみを受けましたが、キリストに従うのは殉教者だけではありません。主の庭にはさまざまな花があります。殉教のバラだけでなく、純潔のユリ、夫婦の忠実を表すツタ、そして寡婦の紫の花もあります。どんな人でも、どんな立場でも、自分の召命に絶望する必要はありません。キリストはすべての人のために苦しみ、すべての人が救われることを望んでおられるからです。

 私たちは殉教の危険にさらされていなくても、キリストに従う道は常にあります。聖パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と語ります。キリストはご自分を低くし、従順になられました。では、私たちはどうでしょうか。キリストがへりくだられたのに、私たちが高ぶることがあってよいでしょうか。キリストは死を打ち破り、天に昇られました。私たちもその後を歩むよう招かれています。

 聖パウロはさらに「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座しておられます」と語ります。私たちが地上のことだけに心を奪われるのではなく、キリストが導いてくださる天の国を見つめながら歩むとき、私たちの人生はキリストの光に照らされ、真の意味で実り豊かなものとなります。聖ラウレンチオの生き方は、キリストに倣うとはどういうことかを私たちに示しています。私たちもそれぞれの生活の中で、自分に与えられた召命の花を咲かせながら、キリストに従って歩んでいきましょう。

下関のカトリック教会

私自身のコメント

 ヨハネによる福音書12章24節には、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」とあります。夏が近づくと、スーパーには色とりどりの野菜や果物が並び、季節の恵みを感じます。最近、私は小さな楽しみを見つけました。種をまき、野菜を育てることです。小さな種を土にまくと、毎日少しずつ芽が伸びていきます。その姿を見るたびに心が温かくなり、自分の手で世話をし、その命が育ち、やがて実を結ぶという経験は、言葉では言い尽くせない深い喜びを与えてくれます。しかし、植物が育つためには、まず種そのものが生きていることが必要です。そして私はふと考えました。神さまが私の人生にまいてくださった種は、ちゃんと育っているのだろうか。私は良い種になれているのだろうか。

 今日、教会は聖ラウレンチオ助祭・殉教者を記念します。彼は三世紀に生き、すべてを神にささげた人でした。スペインの信仰深い家庭に生まれ、ローマへ渡り、学び、教会に奉仕し、その誠実な生き方が認められ、教皇シクストゥス二世によりローマ教会の七人の助祭の一人に選ばれました。しかし、皇帝ウァレリアヌスの迫害が始まり、教皇と助祭たちは捕らえられ、死刑を宣告されました。教皇が連れ去られる姿を見て、ラウレンチオは深い悲しみに包まれましたが、教皇は彼に「数日のうちに、あなたも私の後に続くことになるでしょう」と告げました。その言葉を聞いたラウレンチオは、自分の時が来たことを悟り、教会の財産をすべて貧しい人、病気の人、弱い人たちに分け与えました。

 当時、ローマの総督は教会が莫大な財宝を隠していると思い込み、ラウレンチオに財産を差し出すよう命じました。ラウレンチオは少し時間を求めましたが、彼が集めたのは金銀ではなく、ローマ中を歩き回って集めた貧しい人、病気の人、見捨てられた人たちでした。そして総督の前に彼らを連れて行き、「これこそが教会の宝です」と言いました。世の中が「財産」と呼ぶものを教会は宝とは呼ばず、世の中が「重荷」と呼ぶ人々を教会は宝として抱きしめます。ラウレンチオは、この世が奪うことのできない宝を選んだ人でした。

 迫害者は彼を苦しめ、キリストを否定させようとしましたが、ラウレンチオは苦しみそのものを信仰の証しに変えました。聖アウグスティヌスは、ラウレンチオの勝利について「彼は激しいこの世を踏みしめ、甘い誘惑を退けた」と語ります。迫害者はラウレンチオを殺して彼の人生を終わらせようとしましたが、彼の死はかえって神の栄光を告げ知らせる声となり、世代を越えて響き続けています。ラウレンチオは自分の力で勝ったのではなく、どんな試練の中でもキリストを失わなかったから勝利したのです。

 今日の私たちの迫害は、必ずしも命を奪う形ではありません。私たちは今、AI時代の静かな迫害の中に生きています。剣や拷問ではなく、「小さな妥協」という形で信仰が試されます。日本の社会では「迷惑をかけたくない」「評価が気になる」「目立ちたくない」という文化が強く、その中で私たちはつい「心の中で信じていれば十分だ」と思ってしまいます。しかし、信仰は個人的なものですが、決して個人だけのものではありません。一粒の麦が土の中に閉じこもっていたら、いつまでも一粒のままです。死んで、芽を出し、実を結んでこそ、他の人にも命を与えることができます。

 私たちを神から遠ざけるのは、大きな罪ではなく、小さな妥協の積み重ねかもしれません。十字架のしるしをためらう、自分がカトリックだと言えない、助けを求める人を見ても「迷惑かな」と思って黙ってしまう、自分の快適さを優先して奉仕を後回しにする――一つひとつは小さなことですが、繰り返されると信仰の種は土の中で眠ったままになります。私たちは未来のこと、仕事、お金、生活の安定を心配します。それは悪いことではありません。しかし、もし人生の中心がこの世の蓄えだけになってしまうなら、立ち止まって「私の宝は何だろう」と考える必要があります。明日の心配は大切ですが、その先にはもっと長い旅路があります。それは神のもとへ帰る旅です。

 聖ラウレンチオは、教会の宝を問われたとき貧しい人々を指し示し、命を守れと言われたときその命をキリストにささげ、死を前にしたとき何も失いませんでした。彼の宝はこの世が奪えるものではなかったからです。ラウレンチオはまさに地に落ちた一粒の麦でした。死んで、多くの実を結びました。そして神さまは、同じ種を私たち一人ひとりにもまいておられます。

 聖ラウレンチオ、私たちのために祈ってください。恐れにとらわれるとき主を見失わないよう助けてください。お金や心配事に心が奪われるとき本当の宝を思い出させてください。信仰を恥じるときキリストを証しする勇気を与えてください。そして老い、苦しみ、死が近づくとき、私たちが「主よ、私はもう何も自分のために残していません。私の宝はキリストご自身です」と言えるよう導いてください。神さまの御手の中で、私たち一人ひとりが良い種となり、自分を手放し、教会ともっとも小さな人々のために豊かな実を結ぶことができますように。

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