「わたしは渇く」・四旬節第三主日A年

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 四旬節第三主日の典礼は、私たちを「渇き」という深いテーマへと導きます。イスラエルの民が荒れ野で水を求めて叫んだように、またサマリアの女性が井戸に水を汲みに来たように、私たち一人ひとりの心にも、言葉では言い尽くせない渇きがあります。四旬節は、その渇きの正体を見つめ、そこにそっと寄り添ってくださる神のまなざしを感じる時です。

 荒れ野を歩むイスラエルの民は、喉の渇きと不安の中で、「主は本当に私たちのただ中におられるのか」とつぶやきました。しかし主は、岩から水を湧き出させ、民を見捨てないことを示されました。聖パウロは、神の愛が聖霊によって私たちの心に注がれていると語り、私たちの深い渇きに応えてくださる神の恵みを思い起こさせます。そして福音では、サマリアの女性がイエスと出会い、心の奥底にある渇きが満たされ、人生が変えられていきます。彼女はただ水を求めて井戸に来ただけでしたが、イエスはその背後にある「愛されたい」「赦されたい」「新しく生きたい」という渇きを見抜き、そこに水が湧き出るように命の言葉を注がれました。

 私たちの生活にも、同じような渇きがあります。子どもを持つ親は、子どもが神の恵みのうちに守られ、祝福され、信仰のうちに育ってほしいと願っています。来る復活祭、細江と彦島の教会で数名の子どもたちが洗礼を受けます。親たちの祈りと願いは、まさに今日の典礼が語る「渇き」と重なります。子どもたちが神の子として迎えられ、教会共同体の一員として歩み始めることを願うその心は、神ご自身が望んでおられることでもあります。洗礼の水は、親の渇きと神の渇きが出会う場所でもあります。

Shimonoseki Catholic
彦島教会・特徴的十字架のイエスさま
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 また、司牧者にも渇きがあります。共同体が一つとなり、互いに支え合い、愛し合い、協力しながら神の国を築いていくことを願う渇きです。教会が、誰もが安心して帰ってこられる場所、弱い人が守られ、傷ついた人が癒される場所となることを願う渇きです。これは、イエスご自身がサマリアの女性に向けたまなざしと同じ渇きです。イエスは「水を飲ませてください」と声をかけながら、実は「あなたの心を開いてほしい」「あなたの人生に救いをもたらしたい」と願っておられました。

 そして、私たち一人ひとりにも、さまざまな渇きがあります。愛されたい、理解されたい、受け入れられたい、平和のうちに生きたい、尊厳を守られたい。現代社会の中で、孤独や不安、将来への心配を抱えながら生きる私たちの心は、まるで乾いた大地のようです。しかし、今日の福音は告げています。イエスはその渇きを知っておられ、そこに寄り添い、命の水を注いでくださる、と。

 そして忘れてはならないのは、渇いているのは私たちだけではないということです。イエスご自身も渇いておられます。井戸のほとりで「水を飲ませてください」と言われたイエスは、十字架の上で「わたしは渇く」と叫ばれました。それは単なる肉体的な渇きではなく、「あなたを愛したい」「あなたに救いを与えたい」「あなたの心に住みたい」という神の深い渇きの表れです。神は私たちを求め、私たちの心が神に向かって開かれることを渇望しておられます。

 サマリアの女性は、イエスとの出会いによって心の渇きが癒され、喜びに満たされ、町に戻って自分の体験を語りました。その証しを聞いた人々はイエスのもとに来て、ついには「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と告白します。信仰とは、このように「聞くこと」から始まり、「出会い」へと進み、「確信」へと深まり、「証し」へと広がっていくものです。

 復活祭を前に、洗礼を受ける子どもたちの姿を思い浮かべながら、私たち自身も洗礼の恵みに立ち返りたいと思います。私たちの心の奥にある渇きをイエスに差し出し、命の水で満たしていただきましょう。そして、神が私たちを求めておられるという深い真理に心を開きましょう。神の渇きと私たちの渇きが出会うとき、そこに新しい命が湧き上がり、私たち自身が、そして下関の共同体全体が、神の恵みの泉となっていくのです。

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