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四旬節第四主日の典礼は、私たちの霊的な盲目と、ただ主だけが与えてくださるまことの光について深く語りかけています。私たちはしばしば目に見えるものだけにとらわれ、それが真実であるかのように思い込んでしまいます。しかし、今日の第一朗読が示すように、人は外見を見るにすぎませんが、主は人の心の奥深くをご覧になります。私たちがどれほど自分の判断に自信を持っていても、それが必ずしも真理にかなっているとは限りません。だからこそ、主の光に照らされなければ、私たちは容易に迷い、誤り、互いを傷つけてしまうのです。
福音では、生まれつき目の見えない人が主イエスによって癒やされる出来事が語られます。主イエスは「彼が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)と言われました。私たちはしばしば「誰が悪いのか」「どこに原因があるのか」と責任を探しがちですが、主はその問いを超えて、どんな状況の中にも神の業が現れる可能性を示しておられます。これは私たちにとって最も難しい回心の一つです。つまり、誰かを責めることをやめ、どんな暗闇の中にも隠れている希望を探し求め、神が働かれる余地を信じることです。
(つまり、罪とは、他者の欠点ばかりに目を向け、心を閉ざし、相手の中にある善意や努力を見ようとしない態度です。罪とは、偏見や高慢さにとらわれ、軽率な言葉で人を傷つけ、共同体の中で奉仕する人々を尊重しない姿勢です。そして何よりも、罪とは、神が今も私たちの心に、そして世界の中に確かに働いておられるという事実を見ようとしない盲目なのです。)
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そして、本当に目が見えていなかったのは、癒やされたその人ではなく、自分は見えていると思い込んでいたファリサイ派の人々のほうでした。生まれつき目の見えなかった人は、主イエスによって光を受け取り、神の善意を素直に認めましたが、ファリサイ派の人々は自分たちは光の中にいると主張しながら、神の働きを見ようとせず、霊の目が閉ざされていました。私たちも、物事の全体像を見ることができず、また一人ひとりの中にある深い次元を十分に理解することもできません。そのため、自分の限られた視点だけで他者を判断し、早まって結論づけ、非難してしまう危険があります。こうした態度は、私たち自身を闇へと導く罪となってしまいます。
四旬節のこの時、私たちは自分の中にある「見えていない部分」をただ反省するためではなく、主がどのように働いておられるのかを新しい目で見つめるよう招かれています。私たちは自分の狭い視点に固執するのではなく、神の業がどのように現れているのかを探し求める必要があります。主イエスが示されたように、どんな状況の中にも希望が隠され、神の恵みが働いています。私たちが視点を改め、他者を見る目、出来事を受けとめる目、そして神ご自身を見つめる目を整えるとき、主の光は私たちの歩みを照らし、共同体に一致と新しい命をもたらしてくださいます。
第一朗読は、共同体における指導者の役割についても思い起こさせます。指導者とは、人間の思惑ではなく、主ご自身が選ばれる存在です。指導者は共同体が主の御心に従って歩むよう導く使命を与えられています。もし一人ひとりが自分の考えだけに固執し、互いに譲らず、耳を傾けようとしなければ、共同体は必ず混乱し、分裂してしまいます。だからこそ、私たちは互いに尊重し合い、協力し合い、支え合う姿勢を大切にしなければなりません。
新しい年度を迎えるにあたり、私も教会の運営委員会とともに、主に喜ばれ、共同体にとって最もふさわしい道を見いだすために、丁寧に話し合い、分かち合い、祈りながら歩んでいきたいと思います。主が私たち一人ひとりの目を開き、光の子として生きる恵みを豊かに与えてくださいますように。
