年間第四主日A年
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今週の主日のみ言葉は、私たちに一つの美しい道を示してくださいます。それは、神さまの前で小さく、へりくだり、清い心を求めて歩む道です。ゼファニヤ書は、主が貧しく、へりくだった民を残されると語ります。その民は、主により頼み、偽りを語らず、悪を行わず、主の守りのもとで静かな平和を生きる人々です。これは、長い年月を通して心が清められ、恨みや重荷から解き放たれた人の姿でもあります。
この年齢になるまで、皆さまは本当に多くの出来事を経験してこられました。喜びもあり、悲しみもあり、家族のための犠牲、誰にも言えない痛みもあったことでしょう。心の奥には、長い間しまってきた思いがあるかもしれません。誤解されたままの関係、言えなかった「ごめんなさい」、家族の心配、あるいは「もしあの時…」という後悔。
しかし、神さまは、そうした重荷を最後まで抱えて生きることを望んでおられません。忘れることはできなくても、「主よ、これはあなたにお任せします。どうか癒してください」と差し出すことはできます。赦すということは、相手が正しいと言うことではありません。自分の心が軽くなり、これからの歩みを平和のうちに進むための一歩なのです。心がその重さから解放されるとき、主が約束してくださる静かな平和が、そっと心に満ちていきます。
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第二朗読でパウロは、すべてはキリストによる恵みであると語ります。神さまは、強い者ではなく、弱い者、小さな者を選ばれます。それは、私たちが自分の力ではなく、神さまの恵みによって生かされていることを知るためです。清い心とは、完璧な心ではありません。自分の弱さを知りつつ、神さまにゆだねる心です。
皆さまがこれまでに積み重ねてこられた多くの犠牲や祈り、涙や努力を、神さまはすべてご存じです。声に出さなくても、誰にも理解されなくても、主はすべてを見ておられます。そして、厳しい裁判官ではなく、優しい父として、そっと抱きしめてくださいます。清い心とは、子どものように素直に神さまのもとに行き、「主よ、私はあなたに愛されています」と静かに受け入れる心です。
今日の福音でイエスさまは、「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」と語られます。神を見るとは、目で見ることではありません。日々の小さな出来事の中に、神さまの優しいまなざしを感じ取ることです。朝の光のやわらかさ、教会の鐘の音、誰かの温かい言葉、食卓を囲むひととき、そして心にそっと訪れる静けさ。そのすべての中に、神さまはおられます。
皆さま、清い心とは、決して罪のない心ではありません。重荷を手放し、赦しを選び、神さまに身をゆだねる心です。子どものように素直に、神さまの愛に身を委ねる心です。そのような心を持つとき、私たちは神さまがすぐそばにおられることに気づき、そして「神を見る者の幸い」を、今ここで味わうことができます。
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」
主よ、心の重荷をあなたにゆだね、静かな平和を歩ませてください。
