ともに歩む教会共同体をめざして

 小教区共同体の皆さま、

 今日は、私たち小教区という家族とともに、教会が今あらためて大切にしている招きについて分かち合う機会をいただき、心からうれしく思います。近ごろ皆さまも、「シノドス」や「ともに歩む教会」という言葉を耳にされたことがあるでしょう。けれども、こうした言葉が、私たちの日々の信仰生活にどのような意味をもつのか、まだ少し遠く感じられる方もおられるかもしれません。今日は、母なる教会が今どこへ向かっているのか、そして主がこの小教区共同体に何を語りかけておられるのかを、皆さまと一緒に静かに見つめてみたいと思います。

1. 「ともに歩む」とは何か

 まず、「シノドス」という言葉から考えてみましょう。シノドスとは、教会が聖霊の導きのもとで集まり、互いに耳を傾け、対話し、これから進むべき道を識別していく歩みのことです。近年の世界代表司教会議第16回通常総会は、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」をテーマとして、全世界の教会にこの歩みを呼びかけました。

 そこから「シノダリティ」、つまり「ともに歩む教会の姿」という考え方が生まれます。これは単なる会議の方法ではありません。教会全体が、キリストとともに、神の国に向かって歩む生き方そのものです。分かりやすく言えば、信者一人ひとりが孤立せず、互いに支え合い、聖霊に導かれながら、同じ主に向かって歩んでいくことです。

 では、私たちは何のためにともに歩むのでしょうか。シノダリティは、それ自体が目的ではありません。私たちは、ただ教会の仕組みを整えるため、あるいは仲のよい人たちだけで安心して集まるために、ともに歩むのではありません。ともに歩むことは、キリストから託された宣教の使命に仕えるためです。そして、その中心にはいつも聖霊の導きがあります。聖霊を忘れてしまうなら、シノダリティは単なる会議の技術や人間的な意見のぶつかり合いに変わってしまいます。

2. 小教区という一そうの舟

 教会、シノダリティ、宣教、そして聖霊の関係をより身近に理解するために、一そうの舟を思い浮かべてみましょう。私たちの小教区は、広い海を進む一そうの舟のようなものです。

下関のカトリック教会
シノドス的な歩みの教会
シノドス流の教会
  • 灯台:舟が目指す先は灯台です。私たちにとって、その灯台とはキリストご自身です。キリストは世の光であり、すべての人を平和の港へ導いてくださる方です。
  • 舟:それは歴史の海を旅する教会です。そして、より身近には、私たちの愛する小教区共同体そのものです。
  • 宣教:それはこの舟に与えられた航海の使命です。主は私たちに「沖に漕ぎ出しなさい」と招かれます。人々の救いのために網を下ろし、福音の喜びを世界へ運ぶこと、それが私たちの航海です。
  • シノダリティ:それは乗組員が舟を動かす仕方です。皆が互いに耳を傾け、それぞれの賜物を尊び、責任を分かち合い、心を合わせて櫂をこぐことです。
  • 聖霊:聖霊は帆をふくらませる聖なる風です。私たちの努力だけでは進めないときにも、聖霊は命を吹き込み、舟を前へと押し出してくださいます。 

 シノドスの文書には、とても深い意味をもつ言葉があります。「宣教がシノダリティを照らし、シノダリティが宣教を促す」という言葉です。この言葉を、先ほどの舟のたとえで考えてみましょう。

 宣教とは、舟がなぜ港を出て、どこへ向かって進むのかを示す目的です。私たちは、人々を救いへと招き、福音の喜びを届けるために、沖へ漕ぎ出すよう主から呼ばれています。だからこそ、私たちは安全な港にとどまり続けたり、船内で互いに言い争うことに心を奪われたりしてはいけないのです。宣教という使命があるからこそ、私たちはなぜ一致し、なぜ協力し、なぜ互いに耳を傾ける必要があるのかを知るのです。

 そして反対に、シノダリティとは、その舟がどのように進んでいくかを示す歩みです。互いに信頼し、祈り、声を聴き合い、それぞれの賜物と役割を分かち合うとき、教会という舟は荒波を越える力をいただきます。私たちの一致は、内向きの安心のためではなく、福音を必要としている人々のもとへ向かうための一致です。こうして、宣教はシノダリティに進むべき方向を与え、シノダリティは宣教を実際に前へ進める力となるのです。

3. 船長の役割

 ここで、ある方はこう思われるかもしれません。「皆で歩み、皆で舟をこぐことは大切です。しかし、もし一人ひとりが自分の行きたい方向にこいだら、舟はどこへ行くのでしょうか」。これは、とても現実的で大切な問いです。

 シノドス的な歩みとは、決して「皆が同じ権限を持ち、各自が好きなように行動する」という意味ではありません。教会には、いつの時代にも、主から託された導き手が必要です。シノドスの文書においても、権威と指導者の役割は明確に示されています。牧者に与えられた権威は、教会全体を建て上げるために聖霊から授けられた特別な賜物です。また、教父たちの時代から大切にされてきた「司教なしには何も行わない」という原則も思い起こされています。小教区においては、これは主任司祭との一致のうちに歩むということです。指導の務めは、キリストご自身が教会の一致に奉仕するために定められた秩序に根ざしており、軽んじることのできない大切な使命です。

 小教区という舟において、主は主任司祭に舵を預けておられます。けれども、ともに歩む教会の船長は、閉ざされた部屋で独断的に命令を出す人ではありません。船長は、海の様子をよく見るために乗組員の声を必要とします。風の変化、舟の中の疲れ、困っている人の声、まだ見えていない危険を知らせてくれる人々のまなざしを必要としています。

 だからこそ、私は皆さまを必要としています。皆さまの目で、地域や家庭の中にある必要を見つけてください。皆さまの耳で、苦しむ人、孤独な人、教会から離れている人の声を聴いてください。宣教司牧評議会、諸団体、奉仕者、そして一人ひとりの信徒の知恵と経験は、共同体の識別に欠かせない恵みです。私は皆さまの声を聴き、ともに祈り、聖霊の導きを求めます。そして最後には、主から託された責任をもって舵を取り、キリストという灯台に向かって舟を進めていきます。これは支配ではなく、愛のうちに責任を分かち合う奉仕です。

4. 広島教区でどのように実践するのか

 皆さま、ここまでお話ししたことは、遠い理論ではありません。広島教区では、「ともに歩むあたたかさのある教会」を目指す歩みが、すでに具体的に始まっています。

 教区は、私たちが単に組織として強くなることではなく、神の家族としての温かさを育て、地域社会に福音の光を届けることを望んでいます。そのために、いくつかの大切な実践が呼びかけられています。

  • 源に立ち帰ること:初代教会の姿に学び、神のことばに耳を傾け、祈り、ミサに集い、分かち合う共同体として生きることです。過去に戻るためではなく、現代の中で新しく福音を生きるために、私たちは信仰の源に立ち帰ります。
  • 「宣教ひろば」に参加すること:広島教区では、「宣教ひろば」を通して、「霊における会話」を学び、実践しています。そこでは、互いを裁かず、急いで結論を出さず、祈りの心で語り、聴き合います。その中で、聖霊が共同体に何を語っておられるのかをともに見極めていきます。
  • 生活によって宣教すること:宣教は、まず言葉からではなく、聴く姿勢、迎える心、温かな関わりから始まります。福音の温かさは、規則や制度だけでは伝わりません。あいさつ、声かけ、訪問、支え合い、異なる文化や世代を受け入れる心を通して、キリストの愛は人々に届いていきます。 

5. 結びの招き

 皆さま、教会は教皇様だけのものでも、司教様だけのものでも、主任司祭だけのものでもありません。教会は、洗礼によってキリストに結ばれた私たち皆の家です。子どもも、若者も、働き盛りの方も、高齢の方も、病の中にある方も、外国から来られた方も、皆この小教区という舟に欠かすことのできない乗組員です。

 私は心から皆さまにお願いします。どうか、傍観者ではなく、協力者としてこの舟に乗ってください。遠慮せず声を届けてください。自分に与えられた賜物を小さなものと思わないでください。祈ること、聴くこと、声をかけること、掃除をすること、歌うこと、子どもを見守ること、病者を訪ねること、外国籍の方を助けること、どれも教会を前へ進める大切な櫂です。

 私たちがともに祈り、ともに聴き、ともに働くなら、この教会で感じる「神の家族」の温かさは、家庭へ、職場へ、学校へ、そして地域社会へと広がっていくでしょう。聖霊が私たちの帆をふくらませ、聖母マリア、海の星が私たちの航海を見守り、キリストという灯台へと導いてくださいますように。

英語版(The Final Document of the Synod 16 – 2024)

ベトナム語版(Văn Kiện Chung Kết của Thượng Hội Đồng Giám Mục lần thứ 16 – 2024)

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