現代の私たちの歩みの中には、避けることのできない一つの現実があるように思われます。物質的には豊かで、科学技術も進んでいるにもかかわらず、人々の心には不安や孤独、そして脆さが深まっているということです。大都市や先進国の慌ただしい生活を見れば、多くの人が学び、働き、収入を得ることに追われています。「お金で幸せは買えないが、電気代や水道代、そして wifi は払える。wifi が切れたら不幸になる人も多い」、そんな冗談が語られるほど、現代社会の姿が映し出されています。
その背景には、急速な生活リズム、経済的な重圧、価値観の揺らぎ、戦争や感染症、気候変動、そして家庭や社会の関係の亀裂など、さまざまな困難があります。その中で、多くの人が孤独を覚え、方向を見失い、人生や信仰の意味に戸惑うこともあるでしょう。そのような状況の中で響く神のみことばは、遠い理論ではなく、「時代の嵐の中で私たちを支える、静かで確かな希望の源」となります。
今日、物質的には満たされていても、心の道を見失う人が少なくありません。情報はあふれていても、生きる方向性を見いだせず、身体は健康でも、精神や霊の領域では疲れを覚えることがあります。みことばは、そのような心にとって「道を照らす光」となります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光;わたしの歩みを照らす灯」(詩編119・105)。この光は、すべての困難を取り除くものではありませんが、私たちが歩むべき道を静かに示し、多くの選択の中で何が大切なのかを気づかせてくれます。
社会が成功や効率、力や享楽を重んじるとき、みことばは、人間の真の価値は所有物ではなく、神と人との関わりの中にあることを思い起こさせます。みことばの光は、移りゆく流行に流されず、立ち止まり、識別し、真理と愛に基づいて選ぶ力を与えてくれます。
さらに、みことばには「深い慰め」があります。イエスは人生の重荷を否定するのではなく、その現実を見つめ、優しく招かれます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・29)。これは苦しみのない人生を約束するものではなく、神の愛のうちにとどまり、重荷を分かち合い、心の平和を取り戻すための招きです。生活の不安や病、将来への心配の中で、みことばは「あなたは独りではない」と静かに語りかけてくださいます。
不安定な社会の中で、明日への心配は尽きません。人は備えようとしますが、未来を完全にコントロールしようとするほど不安は増していきます。そのようなとき、イエスの言葉は解放の響きを持ちます。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(マタイ6・34)。これは無責任を勧めるものではなく、「今日という日を神に信頼して生きる」ように招く言葉です。みことばに寄り添うとき、私たちは未来への恐れに心を奪われるのではなく、信頼をもって一日一日を歩むことを学びます。
また、デジタル時代の隠れた痛みである孤独や迷いの中で、みことばは「とどまり、実を結ぶ」関係へと導きます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15・5)。みことばにとどまるとは、ただ読むことではなく、心と思いと行いの中に静かに染み込ませることです。神に結ばれるとき、限界や弱さの中でも人生に意味があることを見いだします。実りとは大きな成功ではなく、忍耐、忠実、そして逆境の中で保たれる静かな希望であることもあります。
聖書は、嘆きや葛藤、答えの出ない問いを隠しません。その正直さの中で、私たちは神の寄り添いを感じます。みことばはすべての答えをすぐに与えるわけではありませんが、「神は共におられ、愛し続けてくださる」という希望を与えてくれます。
不安の多い時代において、必要なのは情報の多さではなく、みことばに根ざした揺るぎない内的な基盤です。みことばを聞き、黙想し、日々生きるとき、それは信仰を養う源となり、人生の嵐の中でも私たちを支えてくれます。そして、私たちは自ら希望を見いだすだけでなく、平和と信頼と愛のうちに生きることで、周りの人々にとっての「希望のしるし」となっていきます。
最後に、みことばは私たちに静かに語りかけます。
――暗闇の中でも、光は確かに輝いている。
――不安のただ中でも、神は共にいてくださる。
――人間の弱さの中でも、キリストに根ざした希望は揺らぐことがない。
私たちがその希望に支えられて歩むことができますように。
原文:ベトナム語、dongten.netより
