司祭が「重荷」と見なされてしまうとき

この文章はまず何よりも、司祭たちが共に主に感謝をささげ、主が惜しみなく与えてくださった叙階の恵みを思い起こすために書かれています。同時に、典礼と秘跡の執行に忠実であり続け、牧者としての使命において常に清い心で福音に忠実であるために、主がさらなる恵みと力、そして勇気をお与えくださるよう願うものです。

信徒の側にとっても、これらの思いは、司祭を愛するとは「偶像化すること」ではなく、神に愛される一人の人間として、脆さや限界、そして誰にも言えない重荷を抱えている存在として接することだと気づかせてくれます。

司祭も信徒も、どうか開かれた心でこの文章を受け取っていただければ幸いです。そうすれば、そこに起こるのは一時的な感情ではなく、静かな癒しです。司祭を理想化するためでも、責任や過ちを免除するためでもありません。むしろ、こう思い起こすためです――教会は「完璧な人々」によって築かれるのではなく、「弱さを抱えながら互いに支え合う人々」によって築かれるのだと。

私たちの共同体が、感謝、尊敬、そして兄弟愛によって教会を共に築き上げ、誰一人として孤独のうちに歩むことがないように願います。

今日の世界において、司祭であることは、迫害というよりもむしろ「世間の目」によって危うい召命となっています。社会は知らず知らずのうちに、司祭に対して矛盾した厳しい要求を突きつけ、まるで「始まる前から負けが決まっている不公平なゲーム」のような状況を作り出しています。

女性と一緒にいれば、疑われる。
男性と歩けば、レッテルを貼られる。
子どもに近づけば、警戒の視線が向けられる。
お年寄りを助けても、噂の種になる。

距離を置けば「高慢だ」と言われ、
近づけば「軽率だ」と言われる。

高齢者に寄り添えば「時代遅れ」、
若者に関われば「迎合している」と言われる。

説教が長ければ不満を言われ、
短ければ「浅い」と批判される。

強く語れば「怒鳴っている」、
優しく語れば「弱々しい」と言われる。

車や設備があれば「物欲が強い」、
何も持たなければ「牧者として無責任」と言われる。

信徒を訪問すれば「干渉しすぎ」、
訪問しなければ「無関心」と言われる。

献金を呼びかければ「動機を疑われ」、
お金の話題を避ければ「気取っている」と言われる。

若ければ「経験不足」、
年を重ねれば「そろそろ引退すべき」と言われる。

世間という「裁判所」において、司祭は常に被告席に立たされているかのようです。にもかかわらず、批判する人々は司祭に対して、まるで「理想的人間像」を求めます。

24時間いつでも対応できること、
完璧な感情、
非の打ちどころのない道徳性、
徹底した質素な生活、
誤りのない典礼、
社会への熱心な関わり、
優れた知識、
そして尽きることのない体力。

そんな基準を満たせる「普通の人間」は存在しません。それでも、私たちは司祭にそれを求めてしまいます。

人々が求めているのは、聖なる司祭というよりも、
疲れ知らずで、
間違いを犯さず、
不満を言わず、
常に奉仕し続ける「完璧な機械」のような存在なのかもしれません。
その結果、多くの司祭が静かに疲弊していきます。

ミサの背後には、すでに限界に達している一人の人間がいます。
微笑みの背後には、不当な評価に耐える心があります。
小さな失敗の背後には、容赦なく裁かれる一人の人間がいます。

享楽、欲望、自己中心が支配する世界の中で、神に「はい」と答えるには大きな勇気が必要です。快適さを手放す覚悟が必要です。毎日祭壇に立つたびに、自分が祈っているその人々から裁かれる可能性があると知りながら、それでも奉仕し続ける霊的な勇気が必要です。

そして司祭が老年期に入ると、その痛みはさらに深くなることがあります。体力が衰え、記憶が遅くなり、「牧者としての効率」が下がると、今日の社会における多くの高齢者と同じように、「重荷」と見なされてしまうことがあります。しかし、神のまなざしにおいて彼らは、福音のために生涯を捧げた尊い奉献者です。

もしあなたが本当に自分の司祭を愛しているなら、
スキャンダル、病気、危機、疲弊が起きてから祈り始めるのではなく、
どうか今、支えてください。
今、祈ってください。
今、そばにいてください。

信徒の一人より

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