(ルカ24章、復活の水曜日と木曜日)
みことばの典礼(ルカ24章13節-49節)はこちら。
皆さん、
復活の八日間の中で、私たちはルカ福音書24章を通して、主イエスがどのように弟子たちに近づき、心を癒やし、希望を取り戻させてくださったかを味わっています。水曜日と木曜日の福音を合わせて読むと、その流れはまるで一つのミサのように見えてきます。主イエスは、失望と悲しみに沈む二人の弟子たちにそっと近づき、何も責めず、ただ共に歩き(シノダリティー)、心の痛みを聞き、静かに寄り添ってくださいました。私たちの人生にも、同じような瞬間があるのではないでしょうか。疲れ、迷い、祈る言葉さえ出てこない日…。そのような時、主イエスはどこにおられるのでしょうか。もしかしたら、私たちのすぐそばを歩いておられるのに、気づいていないだけかもしれません。今日、私たちは心の中で問いかけてみましょう。「今、私の人生の道を、主イエスはどのように歩いてくださっているのだろう。」
道を歩きながら、主イエスは聖書を解き明かし、弟子たちの心を少しずつ温めていきました。み言葉には、心の暗闇に光を差し込む力があります。ミサでみ言葉を聞くとき、私たちはどんな心で耳を傾けているでしょうか。「主よ、今の私に必要な言葉をください」と願っているでしょうか。それとも、ただ聞き流してしまっているでしょうか。み言葉は、耳だけでなく、心で受け取るときに初めて力を発揮します。今日のみ言葉は、私のどんな部分に触れようとしているのか。主イエスは、私のどんな傷に光を当てようとしておられるのか。静かに思い巡らしてみましょう。
そして、弟子たちの目が開かれたのは、主イエスがパンを取り、賛美をささげ、裂いて渡された瞬間でした。これはまさにご聖体の秘跡です。ご聖体は象徴ではなく、復活された主イエスご自身が、私たちの中に入ってくださる恵みです。私たちはご聖体をいただくとき、どんな心で主を迎えているでしょうか。「主よ、私の心に来てください」と本気で願っているでしょうか。それとも、習慣のように受けてしまっているでしょうか。ご聖体は、疲れた心を癒やし、不安を静め、希望を取り戻させる慰めの源です。私たちの心の中で、主イエスは何を癒やしたいと願っておられるのでしょうか。
今日の福音では、エマオから戻った弟子たちが体験を語っていると、主イエスが弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶してくださいました。主の平和は、外側の状況が変わらなくても、心の奥に静けさと力を与えてくれます。私たちは今、どんな平和を求めているでしょうか。家庭の平和でしょうか。心の平和でしょうか。ゆるしの平和でしょうか。主イエスは、私たちの心の奥深くに触れ、「恐れることはない、私はここにいる」と語りかけてくださいます。
そして最後に、主イエスは弟子たちを遣わされました。ミサの最後に司祭が「行きましょう、主の平和のうちに」と告げるように、主イエスは私たちを家庭へ、職場へ、社会へと送り出しておられます。エマオの弟子たちが喜びに満ちてエルサレムへ戻ったように、私たちもミサから力を受け、新しい一歩を踏み出すことができます。ミサは、復活された主イエスが私たちに触れ、癒やし、力を与え、再び歩き出す勇気をくださる出会いの場です。
兄弟姉妹の皆さん、ご聖体は私たちの慰めであり、希望であり、力です。どんなに弱っていても、主イエスはご聖体のうちにそっと近づき、「あなたは一人ではない」と語りかけてくださいます。今、心を静めて祈りましょう。
主よ、私たちの目を開いてください。
主よ、私たちの信仰を強めてください。
そして、毎日もっと深くご聖体を愛することができますように。
あなたが共に歩いてくださることを、いつも感じることができますように。
アーメン。
