司祭が抱える、休んでも癒えない疲れについて

私たち司祭には、休息や小旅行では癒されない種類の疲れがあります。多くの場合、ただ耳を傾け、助言を求められるだけですが、私たちは知らず知らずのうちに、人々の絶望、怒り、そして希望の見えない思いを受け止めています。人々は司祭を希望の支え、励ましや慰めをもたらす存在として見ているため、私たちはその苦しみに対して脆くならざるを得ません。

私たちは、キリストの現存として人々を迎え入れ、思いやりをもって寄り添うよう教えられています。羊の群れと共に歩むことが求められています。しかし、私たちにも個人的な葛藤があります。自分たちもまた、欠点を抱え、傷ついた「一人の人間」であることを忘れてしまうことがあります。そして時に、司祭としての力と活力の源であるイエスから、無意識のうちに離れてしまうことがあります。その結果、対処しきれない疲れが生まれてしまうのです。

もし私たちが不機嫌そうに見えるとき、どうか少しだけ理解をいただければ幸いです。私たちは自分の苛立ちを表す機会がほとんどありません。もし私たちが一人で寂しそうにしているのを見かけたら、どうか祈りのうちに思い起こしてください。一時的に失ってしまった喜びを再び見いだせるように。私たちが静かに苦しんでいるように見えるときは、どうか声をかけてください。ほんの一言の「元気ですか?」が、私たちにとっては大きな励ましになります。

そして何よりも、私たちが疲れ切っているように見えるときには、祈りの時間を取り戻せるよう祈ってください。司牧の忙しさが、祈りの必要性――あの疲れに対する唯一の癒し――を覆い隠してしまうことがあるからです。

どうか、私たちのために祈ってください。私たちも皆さんのために祈っています。
ありがとうございます。

クリスチャン・エマニュエル・ガビネテ神父より

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