マタイによる福音 9・36-10・8
(説教 百瀬文晃神父)
今日の福音朗読では、マタイによる福音から、主イエスが12人の弟子を召しだし、派遣する場面が読まれました。12人のリストが挙げられますが、これを見ると、この12人が特別に能力があったからでもなく、信仰が深かったからでもありません。彼らはガリラヤの漁師であったり、徴税人であったり、最後には主イエスを裏切ってしまうような人であったりします。大した教養もなく、素朴で純粋ですが、頼りにならない人々でした。
主イエスによる弟子たちの選びは、現代の日本のように、よい学校に入るために小学校のときから塾に通ったり、よい成績を収め、よい就職をして、よい地位を獲得するために互いに競いあったりする社会では考えられない人選です。しかし、主イエスはこの弟子たちを愛し、教え導き、最後にはご自分の命さえ差出して、悪の力から守りました。ご自分の亡き後も孤児のように捨ておかれないように、パンを取って「これはあなたたちのためのわたしの体」と言い、ぶどう酒を取って「これはあなたたちのために流されるわたしの血」と言って、いつも弟子たちとともにいることを約束されました。こうして、12人の弟子たちはキリストの教会の礎となることができたのです。
思えば、始めの頃の教会は、マタイ福音書の書かれた共同体でも、まだ教会の建物も教義も、りっぱな典礼もありませんでした。使徒たちの手紙などで励ましを受けたとしても、まだ新約聖書すら生まれていませんでした。ユダヤ教からの迫害、ローマ帝国から弾圧を受けながらも、主イエスがともにいてくださるという信仰をもって、やがて主が栄光のうちにこられ、正しい裁きを行ってくださることを待ち望んでいました。
同じように、250年以上にわたって迫害され、潜伏した日本のキリシタンもそうでした。パライソでの幸せな再会を夢み、やがて信教の自由の日がくるとの希望を保って、厳しい迫害に耐え、幾世代にもわたって信仰を継承しました。それは、主イエスがともにおられ、導いてくださったことの証しです。
このイエスによる貧しい弟子たちの召命と派遣は、私たちの教会にも、今日ここに集まった共同体にもあてはまるのではないでしょうか。私たちはそれぞれ洗礼を受けた契機は違うでしょう。子どものとき両親の影響で洗礼を受けた人もいれば、友だちに誘われて教会にくるようになった人もいます。しかし、そのようなそれぞれの環境や事情が違っていても、その背後に、環境や事情を通して、主イエスが私たち一人ひとりを選び、ご自分のもとに呼んでくださったのです。私たちが自分の力で努力して、主イエス・キリストのことを知ったのではありません。自分に資格があったから洗礼を受けたのでもありません。私たちがこの世俗主義、物質主義の社会の中で信仰を保っているのは、ひとえに主イエスが私たちを選び、弟子として召しだし、ここまで導いてくださっているからです。
もちろん人によっては、昔の情熱が消えてしまい、いわば慣れ切った慣習のままに教会に通っているかもしれません。祈っても祈っても喜びを感じず、体力も気力もしだいに衰えていくばかりと思う人もいるかもしれません。仕事に疲れ、人間関係の複雑さに疲れ、人生にも疲れている人もいるかもしれません。人によっては加齢とともに心身のあちらこちらに不調が生じ、教会にくるのもむずかしくなっているかもしれません。しかし、そのようなときこそ思い起しましょう。神さまが力のない私たちを無償の愛をもって召しだし、ここに集めてくださったことを。第1朗読にあるように、私たちを「宝の民」と呼ばれ、あたかも鷲がひなを翼に乗せて運ぶように、試練を越えて導いてくださったことを。
そして何よりも主イエスが、私たち一人ひとりの救いのために、ご自分のいのちをささげてくださったことを思い起こしましょう。「世の終わりまでも、わたしはあなたがたとともにいる」と約束してくださったことを思い起こしましょう。たとえさまざまな失望の経験があり、心身ともに疲れているとしても、主がともにいてくださり、導いてくださるのです。落胆したり、失望したりしてはいけません。私たちは信仰をもって、よく祈り、よく休んで、また前に向かって歩むのです。こうして教会は、世界に福音の喜びと希望を運ぶのです。主の導きに応えることができるように、そのために互いに励ましあい、支えあうことができるように、力を願いましょう。アーメン。
