ただで受けたのだから、ただで与えなさい

年間第十一主日A年

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 皆さん、今日の福音の言葉、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。実は、このみ言葉は私にとって非常に特別なものです。私が他の二人の兄弟と共に司祭に叙階された時、私たちが選んだこの道の灯がまさにこの言葉でした。私たちの日常生活では、「何かをしたら、何かをもらう」というルールが普通ですが、神様の愛のルールは全く違います。それは見返りを求めない「ただで」という無償の愛のルールです。

 他者に与える前に、まず私たちがどれほど神様に愛されているかを思い出しましょう。第一朗読の出エジプト記で、神様は「あなたがたは、私の聖なる民となる」と言われました。私たちが選ばれたのは、私たちが完璧だからではなく、神様がただ私たちを愛してくださったからです。パウロもローマの教会への手紙で、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死んでくださった」と書いています。私たちの命、家族、信仰、そして救いの恵みはすべて、私たちが神様から「ただで」いただいた贈り物なのです。

 こんなにも大きな愛をいただいた私たちは、それを自分だけのものにしてはいけません。今日の福音で、主イエスは群衆を見て深く憐れまれました。そして弟子たちに、「病人を癒やし、死者を生き返らせ、悪霊を追い出しなさい」と使命をお与えになりました。今日、主イエスは私たちにも同じ使命を与えておられます。

 私たちは体の大きな奇跡を起こせないかもしれませんが、「愛の奇跡」を起こすことはできます。家族の中で相手を赦すことで心の傷を癒やし、希望を失った人を励ますことでその人の心を生き返らせ、教会の中の悪口や分裂をなくすことで悪霊を追い出します。これらを、見返りを求めず、「ただで」行いましょう。

 この「ただで与える」という呼びかけは、個人のためだけでなく、私たちの小教区全体の姿でもあります。このミサの後、教会宣教司牧評議会の集まりがあり、「シノドス」の精神で分かち合いを行います。「シノドス」とは「共に歩む」という意味です。本当に共に歩むために、私たちは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉を生きる必要があります。教会のための奉仕に自分の時間と力を無償で捧げ、自分と違う意見にも批判せずに耳を傾ける忍耐を持ち、すべての役職は支配するためではなく奉仕するためのものだと理解することです。

 今月は「イエスのみ心」の月です。私たちが本当に「ただで与える」愛を生きることができるよう、私たちの心を主イエスのみ心に合わせましょう。良き牧者である主イエスが、私たち一人ひとり、特に教会委員の皆さんに、ご自分と同じ深く憐れむ心を与えてくださるよう、ご一緒に祈りましょう。

主イエスよ、あなたの民の必要によって、
私たち一人一人への愛に心を開いてくださいます。
私たちが迷っているとき、
あなたは私たちを気遣い、
孤独の中で私たちに同情し、
嘆き悲しんでいるとき、
私たちを慰めてくださいます。
私たちが自分自身を最も愛さないとき、
あなたは私たちを最も愛してくださり、
私たちが自分自身を最も赦さないとき、
あなたは私たちを最も赦してくださいます。
私たちの心を優しく謙虚なものにしてください。
そうすれば、私たちは自分たちよりも
恵まれない人々を思いやることができます。
私たちの石の心を肉の心に置き換えてください。
あなたのすべての人々、
そしてあなたのすべての被造物の中に
ある善と美に私たちの目を開いてください。
私たちをいつも赦す心で祝福してください。

イエスのみ心、あなたにすべての信頼を置きます。
最も聖なるイエスのみ心よ、私たちをあわれんでください!
アーメン。

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