年間第十七主日A年
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「知恵」という言葉を聞くと、私たちはしばしば、頭の良さや、社会で成功するための賢さを思い浮かべるかもしれません。しかし、今日の神様のみ言葉は、本当の「知恵」とは何かを私たちに教えてくれています。
第一朗読で、私たちはソロモン王の素晴らしい物語を聞きました。王座につき、国を導くという重責を前にして、神様から「何でも願うものを与えよう」と問われた時、彼は長寿を願うことも、富を求めることも、敵に対する勝利を願うこともしませんでした。彼がただ一つだけ求めたもの。それは、「神の民を治め、善悪をわきまえるための、聞き分ける心」でした。
ソロモン王が求めたこの「知恵」とは、まさに「識別する恵み」です。何が正しいのか、何が間違っているのか。何が神様のみ旨であるのか、何が自分自身の利己的な望みなのか。そして、何が愛の呼びかけであるのか、何が悪魔の誘惑や罠なのかを、しっかりと見極める力のことです。神様は、彼のこの願いを大変喜ばれました。
では、このことは、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。皆様、私たちがもし神様を選び、神様のみ心を選ぶことができるなら、神様はその他のすべての良いものを、自然と豊かに与えてくださるという約束なのです。皆様は、このことを信じておられるでしょうか。きっと信じておられると思います。私も信じています。だからこそ、その信仰を日々の生活の中で実らせ続けることができますよう、ともに祈りましょう。これこそ、信仰に基づく知恵ではないでしょうか。
この「知恵」について、今日の福音書の中で主イエスは、畑に隠された宝を見つけた農夫と、高価な真珠を見つけた商人の例えを用いて、さらに明るく照らし出しておられます。この二人の人物には、一つの共通点があります。それは、何が最も価値のあるものかを悟った時、彼らは直ちに自分の持っているものを「すべて」売り払い、その畑と真珠を何としてでも手に入れたということです。
主イエスはここで「すべて」という言葉を使われました。これは非常に力強く、断固とした要求です。「すべて」とは、自分のために何も残さないということです。それは、小さなことや二次的な価値を手放してでも、それよりもはるかに尊い価値あるもの…つまり、「天の国」、神様の子となること、そして私たちの「信仰」と引き換えることを受け入れる、という意味なのです。
現在の日本の社会を見渡すと、毎日の仕事の忙しさや、物質的な豊かさの中で、この信仰という宝物が見失われがちです。今日、この教会には、人生の豊かな経験を持っておられるお年寄りの皆様をはじめ、毎日社会で一生懸命働いている方々、そして子育てに苦労しながらも頑張っている若いご家族もいらっしゃいます。
それぞれの世代が、それぞれの悩みを抱えています。では、私たち一人ひとりが、そしてこの小教区全体が、見つけた「信仰の宝」をどのように日々の生活の中で輝かせることができるでしょうか?
それは、家庭内で子どもや孫に対して優しく寛容であることだけではありません。同じこの小教区に集う兄弟姉妹に対しても、互いに赦し合い、受け入れ合うことです。
私たちは皆、「この信仰」という非常に尊い賜物を共有している一つの家族です。考え方の違いや、時に誤解が生じることがあっても、キリストの愛によって互いを赦し合うこと。お年寄りの方はその温かい祈りと笑顔で若い世代を包み込み、働く世代や若いご家族は、忙しい中でも神様を第一にし、互いに助け合うこと。
私たちの教会共同体が、互いに愛し合い、赦し合う姿そのものが、福音の価値観を生きることができるでしょう。それこそが、神様の現存を示し、この社会に対する一番美しく力強い証しとなります。これこそが、私たちが選ぶべき「最高の真珠」なのです。
どうか、ソロモン王に与えられた知恵と識別する力が、私たち一人ひとりに豊かに与えられますように。そして、私たちがいつも神様を第一に選び、この小教区が愛と赦しに満ちた、信仰の宝を分かち合う温かい家となりますように。アーメン。
