年間第二十九主日A年・細江・百瀬神父

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説教(百瀬文晃神父)

 今日の福音では、律法に忠実なファリザイ派の人々が、普段は敵対関係にある世俗的なヘロデ派と、イエスを罠にかけようとして、結託してイエスの所にやってきます。

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 モーセの律法を信仰と生活の基準にしているユダヤ人にとっては、これはジレンマでした。律法によれば、ローマ皇帝に税金を納めることは偶像に貢ぎをそなえるに等しいことでした。しかし、ローマ軍の武力で支配され、むりやりに強制されて、心にとがめを感じながらも税を納めていました(ちょうどキリシタン禁制のもとで踏まされた踏み絵のように)。もし納めなければ、すぐローマ軍に捕らえられ、拷問を受けるか処刑されたでしょう。

 ところが、イエスは彼らが納めているデナリオン銀貨に皇帝の肖像が刻まれているのを指して、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と言われました。けだし名言です。この言葉は、当時のユダヤ人たちにとってだけでなく、現代の私たちにとっても大切なことではないでしょうか。今の日本社会を支配しているのは、ローマ帝国ではありませんが、富と名誉を最高の価値とする世俗心、神以外のものを崇める偶像崇拝です。もちろん、私たちも日本の社会で生活している限り、市民としての義務や慣習に従うのは当然のことでしょう。しかし、今日のキリスト者のジレンマは、日本社会でまともな市民としての生活を望むとき、日曜日のミサに出られなかったり、教会の活動に参加することがむずかしかったりすることがあります。たとえば、受験勉強に励む若者や、スポーツや音楽やクラブ活動に忙しい若者は、教会にきません。そんなとき、「神のものは神に返せ」とは何を意味しているでしょうか。

 実は、人が生きていること自体が神様からの恵みなのです。神様はご自分の愛を受けとめ、これに応えるように人間をお造りになりました。人間の人生にとっての真の幸せとは、地位や快適な生活ではありません。仕事の成功でも名声でもありません。神様を知らず、その恵みと愛とに応えようとしない限り、人生に真の喜びと平和はありません。

 私たちキリスト者は、イエス・キリストを通して神の子とされました。そして、イエス・キリストを通して告げられた神のことばこそ、私たちのいのちの泉であり、そこに生きる力と喜びを見いだします。主イエスが告げておられる「神のもの」とは、神さまが注いでくださっている恵み、私たちの健康と神の子らの交わり、生きる意味と喜びです。これを感謝をもって受けとめ、この愛にお応えすることこそ、「神のものを神に返す」ことにほかなりません。

 キリスト者にとって、日曜日のミサに参加することは、神さまとのつながりをもつことです。神の子としてのいのちに日々成長することです。私たちの心の奥底にある平和への憧れ、心の安らぎと喜びを深めることです。そして、皆で心を合わせて、神様を知らないでいる人々のために祈りましょう。とくに自分の家族や友人たちの間で、神様の愛に目覚めていない人がいたら、その人のために祈りましょう。福音宣教はまずそこから始まるものですから。

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