みことばの典礼はこちらです。
今日は「世界宣教の日」ですね。教皇ピオ11世がこの記念日を制定してから、今年でちょうど100周年を迎えます。この特別な日にあたり、教皇レオ14世は「キリストにおいて一つ、宣教における一致」というテーマを選ばれました。
今日の福音朗読で、ファリサイ派の人々が主イエスに罠を仕掛けました。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」と。主イエスは、彼らが持っていたデナリオン銀貨を見てこう答えられました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
皇帝の銀貨には皇帝の肖像が刻まれています。だから皇帝に返す。では、「神のもの」とは何でしょうか?それは、私たち人間自身です。私たちは神様の似姿として造られ、私たちの存在そのものの深いところに、神様の刻印が押されているのです。
私たちの住むこの下関でも、私たちは社会のルールを守り、国民としての義務を果たします。それは「皇帝のもの」を返すことです。しかし同時に、自分が「神様のもの」であることも決して忘れてはいけません。私たちの命も、時間も、すべては神様からいただいた大切な贈り物だからです。
教皇レオ14世はメッセージの中で、キリスト者であるということは、思想や実践が第一なのではなく、キリストと一致した生活を送ることであると教えてくださっています。私たちがキリストの愛に、一つに結ばれることこそが、すべての宣教の実りを生み出す源なのです。
私たちの教会は、少しずつ高齢化が進み、人数も少なくなってきているかもしれません。「私たちに宣教なんてできるだろうか」と不安になる方もいるでしょう。外国から来た司祭である私も、時々自分の小ささを感じます。しかし、私たちは決して絶望しません。なぜなら、パウロのテサロニケの教会への手紙にあるように、皆さんの「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」を、神様はしっかりと見ておられるからです。また今日の第1朗読にあるように、神様は異邦人の王キュロスさえもご自分の道具としてお使いになりました。神様は、弱く小さな私たちをも、必ず力強く導いてくださいます。
では、私たちがここでできる「宣教」とは何でしょうか。教皇様は、「愛は宣教の本質です」と語りかけておられます。キリストの宣教は愛から生まれ、愛のうちに生き、愛へと導かれるものです。また、宣教における一致とは、決して全員が同じになることではなく、それぞれの多様な賜物を持ち寄り、互いに協力し合うことだと言われています。
私たちが互いに耳を傾け合い、違いを受け入れ、それぞれに与えられた賜物を分かち合うこと。それこそが、この地域に神様の愛を証しする立派な宣教なのです。先週、皆さんは「霊における分かち合い」を行い、すばらしい実りを得ることができました。それは、一人ひとりが心を開き、聖霊の導きに耳を傾けながら、互いの思いを大切に受け止めたからでしょう。心を開いてこの分かち合いに参加してくださった皆さんに、心から感謝いたします。この経験を一度きりのものにせず、これからも互いに聴き合い、支え合いながら、キリストにおいて一つの共同体として歩んでいきましょう。
そして私たちはこれから、ご聖体をいただき、キリストと一つに結ばれます。この一致は、ミサの中だけにとどまるものではありません。私たちを日々の生活へと送り出し、出会う人々の中に神様の似姿を見いだし、その人を大切にする力となります。今週、一つだけ実践してみませんか。毎日出会う人の中に「神様の似姿」を見つけ、その人にほほえみかけ、温かい言葉を一つかけてみてください。こうした小さな愛の行いによって、キリストに結ばれた私たちは、この地域に神様の愛を伝えることができると思います。神様が、私たちの愛の行いを祝福してくださいますように。
