一つのパン、一つの体

キリストの聖体A年2026年

みことばの典礼はこちらです。

 皆さん、今日、私たちは全世界の教会と共に、「キリストの聖体」の荘厳ミサをお祝いしています。実のところ、どのミサにおいても私たちは聖体の神秘をたたえていますが、母なる教会は、この驚くべき秘跡における神の愛を私たちがより深く見つめ、感謝するための特別な日を設けてくれました。

 今日、ここ細江教会での私たちの喜びはさらに大きなものとなっています。なぜなら、共同体の一人の子供が初聖体を迎えるからです。長い間、カテキズム(教理)や使徒信条、主の祈りを熱心に学び、先週ゆるしの秘跡を受けたこの子は、今日、ついに聖体なるイエス様と完全に結ばれるのです。

 今日この子を見ていると、私自身の初聖体の日の記憶がよみがえってきます。私が9歳の時のことです。その日、私はとても楽しみで、朝3時に起きて修道院に行き、準備をしました。ミサは朝の4時半からでした。その日、私と一緒に初聖体を受けた仲間は100人以上いました。私は一番背が小さかったので、シスターたちは私を一番前の列にしてくれました。

 今でも、初めて主の御体に触れ、主イエスを自分の心にお迎えしたときの、胸が張り裂けるような感動を忘れることはできません。その瞬間、私はひざまずいて熱心に祈りました。9歳の子供の心に、深い喜びと平安が溢れ、包み込まれるのを感じたのです。

 皆さん、私がこの思い出をお話ししたのは、皆さんのご自身の初聖体の日を思い出していただきたいからです。あの時のワクワクするような気持ち、主イエスを求める心、そして熱烈な愛を、今日の聖体拝領でも持ち続けているでしょうか?祭壇で聖別されたパンは、もはや普通のパンではなく、私たちの命の源であるキリストの御体、その血と肉となっているのです。

 今日の聖書のみ言葉は、私たちの地上の旅路について思い出させてくれます。申命記には、イスラエルの民が荒れ野を旅した際、神様が彼らをマナで養ってくださったことが記されています。それは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのみ言葉によって生きる」ということを教えるためでした。

 今日、この地上の旅路において、主イエスはかつてのマナよりも優れた糧を私たちに与えてくださいます。主は言われます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51)

 しかし、聖体というパンは、個人の永遠の命を与えるだけでなく、共同体の一致、つまり「交わり」を築くものでもあります。先週の「三位一体」の主日では、神の愛の交わりを見つめるよう招かれました。そして今週、聖体の秘跡は、私たちがその交わりを生きるための道を示しています。

 パウロは私たちにこう語りかけています。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(第一コリント10:17)。英語で「聖体拝領」を「Communion(コミュニオン)」と言いますが、これは「交わり」を意味し、一つのパン、一つの信仰、一つの愛を分かち合うことなのです。

 皆さん、私の心には常に一つの切実な思いがあります。私たちの共同体は、信仰を守り伝えてきた人生の大先輩であるご年配の方が多くおられます。しかし時に、お互いを理解し合い、一つにまとまることに難しさを感じることもあるかもしれません。

 もし心の中にわだかまりを持ったままなら、共に主の食卓に進み、一つのパンを分かち合うことが辛いでしょう。聖体の秘跡は、私たちに「犠牲」を通して交わりを生きるよう呼びかけています。主イエスご自身がまず模範を示してくださいました。私たちを養うパンとなるため、ご自身の命を捧げ、一粒の麦のように砕かれ、神様と私たち、そして私たち同士を和解させてくださったのです。

 ですから、主の御体を受けるとき、私たちも自分自身の利己的な心を「砕く」よう招かれています。交わりとは、兄弟姉妹の違いを受け入れること、互いに尊重し合い、耳を傾け、何よりも赦し合うことです。その時初めて、私たちの小教区は、信仰が輝き、皆が分かち合いの心を持った、温かく愛に満ちた家族となるのです。

 今日、私たちの共同体の子供が初めてキリストの聖体をお迎えします。今日のような純粋な心と平和な喜びをこの子がいつも持ち続けられるよう、皆で一緒にお祈りしましょう。この子が教会と完全に結ばれることを通して、私たち自身も互いの交わりを新たにすることができますように。

 キリストの御体と御血が、私たちの弱さを補い、共同体の傷を癒してくださいますように。私たちが「一つのパン、一つの体」となり、共に神のみ旨を行い、この下関の地に愛を広げていくことができますように。 アーメン。

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