イエスがワールドカップを観に行かれたら、どちらのチームを応援されるだろうか

 インド出身の有名な霊的指導者、アンソニー・デ・メロ神父は、とても興味深いたとえ話を語っています。

 ある日、イエスがサッカーの試合を観に行かれました。カトリックのチームとプロテスタントのチームの試合です。先にプロテスタントのチームが点を入れると、イエスは喜んで拍手されました。すると今度はカトリックのチームが同点に追いつき、イエスはまた立ち上がって喜ばれました。後ろに座っていた一人の観客が、少し苛立って尋ねました。「結局、あなたはどちらの味方なのですか。」

 イエスはほほえんで答えられました。「私はどちらか一方の味方ではありません。ただ、美しいゴールを見るのがうれしいのです。」

 するとその人は、隣の人に向かってつぶやきました。「まったく、不信心な人だ。」

 笑いを誘う話ですが、同時に私たちに深い問いを投げかけます。

 もしかすると、人間がいちばん好むものは、真理そのものではなく、自分の属する側、つまり「味方」なのかもしれません。私たちはしばしば、神が自分の側に立ってくださることを望みます。自分が正しいなら、神も当然、相手に反対してくださるはずだと考えます。自分が一つの陣営を選んだなら、神もその陣営にいてくださるはずだと思い込みます。しかし、すべての人を愛し、すべての人に忍耐し、すべての人の回心を待っておられる神は、時に私たちが望む神の姿とは違って見えるのです。

 今日のソーシャルメディアを見ていると、そのことをますます強く感じます。教会の中で何か出来事が起こると、たちまちFacebook又はXは論争の場になります。人々は教会の正式な言葉を待つことも、祈りのうちに識別する静けさを保つこともなく、急いでどちらかの側に立とうとします。「いいね」で自分の立場を示し、「シェア」で話をさらに広げ、厳しいコメントで多くの賛同を得ようとします。そして互いにレッテルを貼ります。保守、進歩、裏切り者、権威主義者、反教会的な人。私たちはあまりにも早く、そして時には危険なほど軽率に人を裁いてしまいます。しかも、その判断は一方的な情報や、まだ確かめられていない短い投稿に基づいていることが少なくありません。

 悲しいことに、誰もが自分は真理と正義を守っていると思っています。しかし、キリストの真理は、人を侮辱し、さらし、傷つけることによって守られるものではありません。福音の正義もまた、互いを告発し合う声によって成長するものではありません。

 私たちは、しばしば自分が何者であるかを忘れてしまいます。

 私たちは、互いに戦う二つのチームではありません。同じ教会に属する兄弟姉妹です。私たちは、キリストの一つの神秘体に結ばれた肢体なのです。

 毎主日、私たちは同じ食卓へと進み、同じ一つのパンをいただき、同じ一つの杯にあずかります。多くの者でありながら、キリストにおいて一つの体とされているのです。

 それなのに、ソーシャルメディアの上では、私たちはためらうことなく互いに石を投げ合ってしまいます。

 私たちは「向こう側の陣営」を傷つけ、打ち負かしているつもりなのかもしれません。しかし、キリストの神秘体の中に「向こう側」など本当にあるのでしょうか。

 一つひとつの侮辱の言葉、名誉を傷つける投稿、愛のないコメント、憎しみをあおるための共有は、ただ一人の人を傷つけるだけではありません。それは教会そのものを出血させます。なぜなら、私たちが石を投げるその人もまた、同じからだの中にいるからです。そして、私たち自身もそのからだの中にいます。一つの肢体が別の肢体を傷つけるとき、そこに勝者はいません。最も深く痛むのはどこでしょうか。それは頭であるキリストご自身です。そして、最終的にはキリストの神秘体が、ソーシャルメディアの上で、今もなお傷を負い続けているのです。

 そして私は自分に問いかけます。もし今日、イエスが私たちの論争のただ中におられるなら、果たしてどちらか一方の側を応援されるのでしょうか。

 私は、そうではないと思います。

 主は今も、ご自分の教会のただ中に立っておられます。そして、同じ神を父と呼ぶ子どもたちが、クリックやシェア、皮肉な言葉、そして相手を急いで断罪しようとする声によって、互いを傷つけ合っている姿を、静かに見つめておられるのではないでしょうか。兄弟姉妹に向かって投げられる一つひとつの「石」は、その人に届く前に、すでにイエス・キリストの御心を貫いているのです。

 教会には、もう十分すぎるほどの論争があります。しかし、兄弟姉妹を具体的に愛する道は、まだあまりにも足りません。特に、その人が自分と同じ「チーム」にいないように見えるときほど、そうです。教会に必要なのは、さらに多くの「キーボードの英雄」ではありません。必要なのは、ひざまずいて祈ることのできる人です。教会を守ると声高に叫ぶ人がもっと必要なのではありません。謙遜と愛と真理によって、交わりを守る人が必要なのです。

 では、真理とは何でしょうか。

 それは、イエス・キリストご自身です。

(Facebookに投稿されたベトナム語の記事を日本語に翻訳したものです)

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