復活節第六主日(彦島2026年5月3日)
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皆さん、
今日は、広島教区全体で津和野の乙女峠における殉教者の方々を記念する日です。教区の司祭や多くの信徒の皆さんが現地で記念ミサにあずかっていますが、私たちもここで心を合わせ、天の教会、広島教区、そして乙女峠で祈っている兄弟姉妹と深く結ばれています。乙女峠の殉教者たちが迫害のただ中で苦しんでいたとき、神さまは聖母マリアを遣わし、彼らを慰め、信仰を強めてくださいました。今日の私たちもまた、信仰を生きることが難しい時代の中で、同じように主と聖母のまなざしを願い求めています。どうか主が、広島教区を、私たちの小教区を、そして一人ひとりの信仰を支え、力づけてくださいますように。
今日の福音では、弟子たちが主イエスに「父をお示しください」と願い求めます。この願いは、すべての人間の心にある深い渇きでもあります。神を見たい、真理に触れたい、いのちの源に出会いたいという思いです。主イエスはその願いに応えて、「私を見た者は、父を見たのだ」と語られます。主イエスご自身が、父へと至る道であり、真理であり、いのちそのものです。乙女峠の殉教者たちは、この言葉を心の奥深くで信じていたでしょう。飢えや寒さ、孤独や屈辱の中でも、彼らは信仰の目で主を見つめ続けました。だからこそ、最後まで揺らぐことなく歩むことができたのです。私たちもまた、日々の生活の中でさまざまな不安や困難に直面しますが、主はいつも私たちと共におられます。「主を見たい」という願いを心の中で育て続け、日常の小さな出来事の中にも主の働きを見いだすことができますように。
第一朗読では、使徒たちが七人の助祭を選び、共同体の奉仕を任せる場面が語られます。信徒が増え、教会が成長する中で、み言葉の典礼だけではなく、具体的な奉仕が必要になったからです。教会は神の言葉によって育ち、互いに仕える愛によって強められます。主イエスは「道・真理・いのち」であると同時に、弟子の足を洗われた「仕える主」でもあります。主に結ばれて生きるとは、主のように仕える者となることです。聖ペトロは、私たち一人ひとりを「生きた石」と呼びます。それぞれの賜物、置かれた場所、日々の小さな働きや祈りが、教会という家を形づくっています。乙女峠の殉教者たちは、命をもって「生きた石」となりました。私たちは、日常の中での小さな奉仕、忍耐、優しさ、祈りによって「生きた石」となるよう招かれています。
乙女峠の殉教者を記念するこの日に、私たちは主に二つの恵みを願い求めたいと思います。主を見たいと願う心、そして主に倣って仕える心です。聖母マリアが殉教者を支えたように、今日の私たちの信仰も守り、導いてくださいますように。広島教区と私たちの小教区が、愛と奉仕に満ちた「生きた石」の共同体として成長していくことができますように。
