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皆さん、今日の福音の中で主イエスはこう語られます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。主イエスは、ただ生きるだけではなく、私たちが「豊かに生きる」ことを望んでおられます。その豊かさとは、安心、赦し、希望、愛、そして神に守られているという深い平和です。
しかし、私たちは日々の生活の中で、その豊かさをどれほど味わっているでしょうか。心が乾き、疲れ、迷い、孤独を感じるとき、私たちは本当に善き羊飼いの声に耳を傾けているでしょうか。あるいは、別の声に心を奪われてはいないでしょうか。
主イエスはさらに言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10・9)。主イエスご自身が、私たちを命へと導く唯一の門です。その門を通るとは、主イエスの生き方――愛し、赦し、仕える道――を選ぶことです。
日本の教会の現実には約5500人の司祭・修道者がいますが、国全体から見ればとても小さな群れです。多くの修道院や教会施設が閉鎖され、新しい召命が長い間与えられていない共同体もあります。それでも、残された司祭・修道者たちは、与えられた使命を守り続け、しばしば限界を超えて働き続けています。
その中で、疲れ果て、孤独を抱え、自分の召命の意味を見失いそうになる人もいます。では、私たちは彼らのために何ができるでしょうか。彼らを支えるために、どのような祈りを捧げることができるでしょうか。
年配の司祭方(アルティリヨ神父や林神父、百瀬神父など)のお姿を思い浮かべるとき、私はふと、フィリピン出身のガビネテ神父の言葉を思い出しました。司祭には、休暇や小旅行では癒されない種類の疲れがあると。司祭は多くの場合、ただ耳を傾け、相談に乗り、人々の絶望、怒り、悲しみ、行き場のない思いを知らず知らずのうちに受け止めています。人々が司祭を「希望の支え」「慰めの源」と見ているからこそ、司祭はその苦しみに対して脆くならざるを得ません。
しかし司祭もまた、弱さを抱えた一人の人間です。自分の葛藤、傷、限界を抱えています。そして忙しさの中で、力の源である主イエスから無意識に離れてしまうことがあります。そのとき、どうしようもない深い疲れが生まれるのです。
ガビネテ神父は、さらにこう願っています。司祭が不機嫌そうに見えるとき、少しだけ理解してほしい。一人で寂しそうにしていたら、祈りのうちに思い起こしてほしい。そして、「お元気ですか?」の一言が、どれほど大きな励ましになるか計り知れない。そして何より、司祭が祈りの時間を取り戻せるよう祈ってほしいと。祈りこそが、司祭の疲れを癒す唯一の道だからです。
善き羊飼いである主を祝うこの日に、ベトナムの多くの教会では、召命を紹介するための大きな「祭り」のような雰囲気になります。さまざまな修道会の服を着た子どもたちが祭壇の前に立ち、とても可愛らしい姿で皆を和ませます。多くの修道会が代表者を送り、自分たちの会の霊性や使命について紹介し、特に子どもたちや若者たちに語りかけます。そのような雰囲気の中で、小さな頃から『自分もいつか主に人生を捧げたい』と願い始める子どもたちが少なくありません。どうか私たち一人ひとりが、子どもたちや若者たちにとって信仰の良い模範となり、将来、教会に仕える司祭・修道者の召命が育まれていきますように。
皆さん、善き羊飼いである主イエスに願いましょう。司祭・修道者が再び祈りの喜びを取り戻せますように。召命を求める若者が、勇気をもってキリストの門を選べますように。そして私たち自身が、主イエスの声を聞き分け、その愛の道を歩むことができますように。
主が与えてくださる「豊かな命」を、私たちが受け取り、また周りの人へと分かち合うことができますように。アーメン。
