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皆さん、私たちの人生のどんな一歩にも、主は必ず寄り添ってくださるという今日の福音書のテーマです。時には、孤独を感じたり、祈っても答えがないように思えたり、苦しみの中で神様が遠くにいるように感じることがあります。しかし、主は決して私たちを見捨てることはありません。沈黙の中でも、涙の中でも、主はそっと共に歩んでおられます。
今日の福音に登場するエマオへ向かう二人の弟子たちも、まさにそのような状態でした。希望を失い、心は重く沈み、未来が見えなくなっていました。彼らは失望の道を歩いていました。しかし、その道こそ、復活されたイエスが近づいてくださった道でした。
今の世界を見ても、心が重くなる出来事が続いています。イランや中東の緊張は依然として続き、ウクライナでは戦争が終わらず、ミャンマーでは内戦が深刻化し、アフリカの多くの国々では政治的・経済的な不安定が続いています。日本と中国の関係も難しい状況にあり、そして私たちの身近なところでも、京都にある11歳の子どもが父親によって命を奪われるという痛ましい事件が起こり、多くの人が深い悲しみと不安を抱えています。
このような現実の中で、弱い立場の人々を守り、人間の尊厳と命の価値を語り続ける教皇レオ十四世は、しばしば権力を持つ人々から批判や侮辱を受けています。しかし、教皇様は誰かと争うためではなく、福音の真理を語り、平和と対話の道を示し続けています。私たちもその思いに心を合わせたいと思います。
ここで、エマオの弟子たちの姿にもう一度目を向けてみましょう。二人の弟子たちは、深い悲しみの中にありながらも、見知らぬ旅人に親切に接し、話に耳を傾け、そして家に招き入れました。その小さな優しさが、復活された主との出会いへとつながりました。私たちはこの二人の弟子から何を学ぶことができるでしょうか。困難や逆境の中で、どのようにして前に進む力を取り戻すことができるのでしょうか。心が揺れ動くとき、どのようにして本当の平和を受け取ることができるのでしょうか。
彼らの姿は、私たちに大切なことを教えてくれます。どんなに心が沈んでいても、他者に対して心を閉ざさず、小さな優しさを選ぶこと。対話し、耳を傾け、誰かを迎え入れること。そのような小さな行いが、神の恵みへの扉を開くことがあります。優しさは、絶望の闇に光を差し込む最初の一歩となります。
しかし、それだけではありません。エマオの弟子たちが復活の主を認めることができたのは、主が御言葉を解き明かし、そしてパンを裂かれたときでした。つまり、御言葉と聖体こそ、私たちが逆境を乗り越え、心の平和を取り戻すための最も確かな道なのです。人生の道が重く感じられるとき、心が不安に揺れるとき、私たちはエマオの弟子たちのように、御言葉に耳を傾け、聖体の食卓にあずかる必要があります。
皆さん、今日のミサの中で特に心を合わせて祈りたい二つの意向があります。第一に、世界の平和のために祈りましょう。私たちは教皇様と共に立ち、誰かと争うためではなく、福音を語り、対話と和解の道を歩む者でありたいと思います。教皇レオ十四世と心を一つにして、次の祈りを共に捧げたいと思います。
「主よ、どうか、あなたの平和をお与えください。 復活の朝、疑いに満ちていた婦人たちに平和を告げられたように、 恐れのうちに隠れていた弟子たちに「あなたがたに平和」と言われたように、 今、私たちにもその平和を注いでください。 命を与え、和解をもたらす息吹であるあなたの霊を遣わしてください。 敵対する者を兄弟姉妹へと変えてくださるその霊を、 私たちのうちに新たにしてください。」
第二に、今月の教皇の祈りの意向に従い、危機の中にある司祭たちのために祈りましょう。司祭は、神と人々をつなぐ橋であり、共同体のために自分の人生を捧げる者です。その使命は大きく、時に重荷となり、深い孤独や葛藤を生むことがあります。内面の苦しみからくる危機もあれば、共同体との関係の中で生まれる疲れや悩みもあります。さまざまな人々の思いを受け止め、違いを調和させ、愛と希望に満ちた共同体を築くことは、決して簡単なことではありません。だからこそ、復活された主が、疲れた司祭たちに寄り添い、心を癒し、再び喜びと力を与えてくださるよう祈りたいと思います。
皆さん、今日のミサを通して、私たちの心もエマオの弟子たちのように再び燃え上がりますように。復活の主が、私たち一人ひとりの人生の道を共に歩んでおられることに気づく恵みを願いましょう。そして、主の平和と希望を運ぶ道具として、優しさと対話を選びながら歩んでいくことができますように。アーメン。
