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皆さま、日本の社会の中で暮らしていると、私たちは一つの美しい文化に触れます。それは、最後まで自分の役割を果たそうとする心、誰かのために役に立ちたいと願う心です。ここにおられるご高齢の皆さまの中にも、髪は白くなり、足腰は少し弱くなっても、家族のために、教会のために、社会のために、まだ何かをしたいという温かな火が燃え続けていることでしょう。皆さまは、いつも「自分も誰かの役に立ちたい」と願っておられると思います。
けれども、現実は時に、私たちの心に深い寂しさをもたらします。心は願っていても、体がついてこない。病気や痛みのために思うように動けない日があります。今まで当たり前にできていた小さなことさえ、人の助けを借りなければならない時があります。そして何よりつらいのは、子どもや孫の姿が少なくなった家の中で感じる、ひとりぼっちの寂しさかもしれません。その無力感や孤独は心に重くのしかかり、「自分はもう役に立たないのではないか」「この速く進んでいく社会から取り残されてしまったのではないか」と感じさせることがあるかもしれません。
まさにそのような老いの日々の疲れや葛藤の中に、今日の主のみことばは、温かく包み込むように響いてきます。主イエスは言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
この世は、人の価値を「どれだけ働けるか」「どれだけ役に立つか」で測りがちです。しかし、主イエスのまなざしは違います。主は、弱くなった人、疲れた人、心が沈んでいる人を決して忘れません。むしろ、そのような「小さな人」にこそ、神の国の慰めと希望を示してくださいます。
老いによる弱さや限界は、人を小さく見せるかもしれません。けれども、神さまの目には、その小ささは決して無価値ではありません。ご高齢の皆さまは、家族と教会に与えられた大切な恵みであり、人生の歩みを通して神さまの愛を証しする尊い存在です。
預言者ゼカリヤは、救い主が力で支配する王ではなく、柔和でへりくだった王として来られると告げます。主イエスは、弱さを退ける方ではなく、弱さの中にいる人のそばに静かに来てくださる方です。
だからこそ主は言われます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。」長く働き、人を支えてきた方にとって、助けを受けることや自分の限界を認めることは簡単ではありません。しかし、そこにこそ、主と共に歩むへりくだりの道があります。
自分の弱さを責めず、人生を恨まず、今の自分を神さまの手にゆだねる時、主の平安が心に少しずつ注がれます。「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい」というみことばは、私たちにとってどんな意味が与えられているのでしょうか。
たとえ以前のように働けなくても、皆さまには今も大切な使命があります。それは祈ることです。孤独の中でささげる祈り、痛みを抱えながらの祈り、家族や世界のための祈りは、神さまの前で決して小さなものではありません。
その祈りは、目に見えなくても教会を支え、家庭を守り、若い世代に光を届けます。ご高齢の皆さまの存在と祈りは、教会にとって静かな宝であり、神さまの愛を伝える深い力です。
今日のみことばは、疲れた心、重荷を負った心、もう立ち上がれないと思う心に語りかけます。主は皆さまの痛みも、寂しさも、言葉にならないため息も知っておられます。そして、「わたしのもとに来なさい」と、休みと慰めへ招いてくださいます。
また、私たちも身近な高齢の方々に対して、主のやさしい手となるよう招かれています。声をかけること、訪ねること、話を聞くこと、小さな助けを差し出すこと。その一つひとつが、主の慰めを届ける奉仕です。 柔和でへりくだった主イエスが、ご高齢の皆さま、疲れている皆さま、心が沈んでいる皆さまに、慰めと平安を注いでくださいますように。アーメン。
