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2026年8月9日
カトリック細江教会
山中大樹S.J.
今日の福音朗読では、イエス様が湖の上を歩かれたこと、そのときに起こったペトロとのやりとりが報告されています。ご存知のように、湖とか海とかいうのは、聖書の伝統では、無秩序なところ、神に反対する力とか悪霊のすみかとして考えられています。ですから、そのようなものに弟子たちが阻まれている様子、そして、そのようなものをイエスは超えた方だということがまず表されています。
ここで興味深いのは、弟子たちは彼らを邪魔する湖には悩まされていても、恐れないのですが、むしろ、イエス様について勘違いして恐れているのです。
このような弟子たちにイエス様は「安心しなさい」と呼びかけるのですが、これは「しっかり心を保ちなさい」などと訳せることばです。「私である」ことに気づくように諭すわけです。それに対してペトロは、あなたであれば自分を水の上を歩かせることもできる、そのように考えて発言するわけです。このペトロの突拍子のなさはさすがです。その後の推移はみなさんがご存知のところです。
ここで考えてみたいのは、イエス様がペトロを嗜められるのは「助けてください」と言ったことではないという点です。「なぜ疑ったのか」と、初めはイエス様であれば水の上を歩かせることもできると言っていたのに、強い風に気が移って、イエス様への信頼よりも、変えに心が囚われてしまって……。このことをイエス様は咎められるのです。
たびたび告解を聴く中で、イエス様、神様への信頼が足りなかったということばを聞きます。私自身もそう感じることがあります。このことばの意味するところは、私を取り巻く風、現状、状況はイエス様、神様よりも強いということかもしれません。言い換えれば、神様、イエス様が、私を、私たちを大切に思い、救おうとし、人々の心を呼び覚まし、よいこと、美しいこと、いのちで全ての人、この世界、生きとし生けるもの、私をも満たし、癒し、救いたいというその思い、望みは、悪や罪や私たちの状況には敵わないのだと諦めていることを表すように思います。
私が、私たちが、この世界が、神様、イエス様の救いの思いにもといを置くよう、しっかりと心を保つことができるように、心を、生活をイエス様の「私だ。おそれることはない」に向けて整えていくことができるよう、恵みを求めましょう。
