人は、たとえ全世界を手に入れても

年間第二十二主日A年、彦島教会のミサ説教。

みことばの典礼はこちらです。

 皆さん、まずは素晴らしい喜びの恵みを皆さんと分かち合いたいと思います。先日、私たちのある姉妹のお母様が洗礼と堅信の秘跡を受けられました。新しい命に生まれ変わったお母様とその姉妹のご家族に、神様の豊かな祝福がありますように、共同体として心から感謝の祈りを捧げましょう。

 さて、今日の福音の中で、主イエスは私たち一人ひとりの心に深く響く問いを語りかけておられます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」

 約500年前、このみ言葉は野心に満ちた一人の青年の心に火をつけ、その人生を大きく変えました。その青年こそ、イエズス会の兄弟、聖フランシスコ・ザビエルです。パリで学んでいたころ、聖イグナチオはこのみ言葉をザビエルに何度も繰り返し聞かせました。やがてザビエルは深く心を動かされ、この言葉に導かれて、自分の人生を神へと向け始めたのです。このみ言葉に心を動かされたザビエルは、深く悩み抜いた末に、ヨーロッパでの栄誉や安定を手放しました。そして嵐や危険を恐れず極東へ渡り、この日本に福音の種を蒔いてくれたのです。

 ザビエルだけではありません。古くは第一朗読の預言者エレミヤや、第二朗読の使徒パウロも、同じように神様の言葉の火に焼かれた人々でした。エレミヤは人々に嘲笑され、「もう神様のことは語るまい」と逃げ出したくなりました。しかし、み言葉が骨の髄で燃える火のようになり、どうしても黙っていることができなかったのです。神様の愛が、彼の恐れに打ち勝ったのですね。

 しかし皆さん、なぜ自分の命を失わなければならないのでしょうか? 主イエスは「自分の命を救おうとする者は、それを失う」と言われます。

 少し矛盾しているように、逆説的に聞こえるかもしれませんね。しかし、これこそが人生において最も重要な選択なのです。本当の幸せや豊かな命というのは、財産をどれだけかき集めるか、あるいは自分の「エゴ」やプライドをどれだけ守るかにあるのではありません。自分の「エゴ」が大きくなればなるほど、私たちの心は狭く、息苦しくなってしまいます。

 主イエスが示してくださった道は真理・愛・十字架・救い・いのちの道です。それは、利己心から一歩踏み出し、神様のため、そして隣人のために、あえて自分が少し損をすること、少し自分をすり減らすこと。十字架上で命を捧げられた主イエスのように愛すること。その時に初めて、私たちは最も豊かに「生きる」ことができるのです。

 そして、私たちの共同体として、今日も引き続き、病床にある小さなあの子どものために祈りましょう。その子が一日も早く回復し、ご家族に神様の慰めと平安が与えられますように。

 さらに、今この瞬間も、世界各地で自然災害や戦争によって苦しみの中にある兄弟姉妹のためにも祈りを合わせたいと思います。特に、数日の間にネパールや周辺地域で発生した大規模な土砂崩れによって、多くの方々が命を落とし、悲しみと絶望の中にあります。犠牲になられた方々の永遠の安息と、傷ついた人々への慰め、そして速やかな救済を祈り求めましょう。

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」

 今日、み言葉の火が私たちの心にも灯され、勇気を持って愛と奉仕の道を歩んでいくことができますように。アーメン。

» 神父の話 » 人は、たとえ全世界を手に入れても