2026年8月30日(細江)
説教(百瀬文晃神父)
今日の福音は、先週に続いてマタイの第16章からです。主は御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と打ち明けられます。これを聞いてペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、大反対します。ところが、主は厳しくペトロを叱ります。「サタン、引き下がれ。・あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
かわいそうなペトロですね。確かにペトロはまだ何もわかっていなかったのでしょう。弟子たちが主イエスの十字架こそ私たちの救いだったのだと知るのは、主イエスの復活というできごとを体験して初めてわかったのです。しかし、主がこれほど厳しく叱ったのは、あくまでも天の父の御心を追い求めるイエスにとっても、サタンの大きな誘惑だったからではないでしょうか。
私たちだったら、どうでしょう。自分の愛する人が余命まもないと知らされたら、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うのではないでしょうか。(私の知人で、今はもう90歳になる方ですが、子どもたちがまだ小さいとき、自分が不治の病いにおかされて、あと数か月の命と診断されたそうです。そのとき彼女は、「主よ、あなたがお呼びになっても、私は行きません。この子たちを残しては行けません」と必死になって祈ったそうです。さいわい、神さまは彼女の祈りをお聞きいれになって、奇跡的に治療が成功して、まだご存命中です。)
「神のことを思わず、人間のことを思ってしまう」というのは、私たち弱い人間には仕方がないというか、むしろ当然でしょう。神さまはそれもご存じです。ときには、神さまのお望みがどこにあるのか、私たちにはわからないことがしばしばです。
しかし、福音書の読み方を心得ておかなければなりません。イエスの在世時には、十字架とはローマ帝国が謀反を起こす者に課した恐ろしい刑罰でした。だから、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉は、文字通りにそのときの主のお言葉ではないでしょう。弟子たちが主イエスの復活を通して信仰を与えられて、「十字架」を救いのシンボルとするようになった後に、改めて伝えた言葉なのでしょう。主イエスが十字架の上で私たちの罪とその結果である死の宿命を担ってくださったこと、それによって私たちにいのちがもたらされたこと、これを理解した弟子たちがイエスの言葉の真意を改めて言い伝えて、福音書に記され たのです。
「自分の十字架」とは、自分が望まないのに他から負わされた重荷と苦しみのことです。自分や家族の健康のこと、仕事のこと、人間関係のこと、私たちの人生にそのような苦しみは避けられません。しかしキリスト者は、それが決して自分一人で背負う苦しみではないことを知っています。主キリストが一緒に担ってくださるということ、また自分の苦しみは主キリストが私たちの救いのためにささげてくださった苦しみへの参与であることを知っています。
主イエスは、今日も私たちにおっしゃいます。「わたしに従いなさい。」主キリストに従うこと、主とともに、世界の苦しんでいる人々のために祈ること。自分にできることを捧げることが呼びかけられています。
