ミサ説教(佐久間神父)カトリック細江教会
イザヤ25・6~10a
フィリピ4・12~14、19~20
マタイ22・1~14
秋を迎えて、ミサの朗読箇所も収穫の時、つまり終わりの時についてのメッセージに焦点が当てられます。人生の実り、人類と世界の歴史の実りの時についてのメッセージをどのように受けとめたらよいでしょうか。
第1朗読のイザヤの預言とマタイ福音書とは対照的なメッセージを伝えているように響きます。実りの時、終わりの時について、イザヤ書では死が取り除かれることを、遺体を包んでいる覆い布が取り除かれるというイメージで描き出します。他方マタイ福音書のたとえ話では終わりの時が、喜ばしい宴席から外に追い出される恐ろしい時とされています。イエスが告げた福音は憐れみや赦しを与える優しい神について語り、旧約の預言者は悪を厳しく裁く恐ろしい神を告げ知らせた、と考えられがちですが、今日の聖書箇所を比較して見ると、全く逆に旧約の預言者イザヤの方がいのちを与える優しい神で、イエスの方が厳しい神のイメージで、これを聞く人を恐れさせているようにも思えます。この違いはどこから来るのでしょうか。
イザヤとイエスとそれぞれが誰に向かって語りかけているかに注目してみましょう。イザヤ書では大国との戦争に敗れ、破壊され打ちひしがれて、死んだようになっている人々に向かって、神が再びいのちを与え、死を滅ぼしてくださるという希望を語り、励ましています。イエスの譬え話は「祭司長や民の長老たち」に向かって語られたものです。福音書に度々登場する彼らは、イエスに反対し、天からのしるし、つまり神からの証明を求めてイエスを試し、ついにはイエスを拒む人々です。彼らに向かってイエスはたとえ話を語ります。神からいのちへの招待が来ているのに、それを無視し、反抗して、自分から死を選ぶという愚かさを分からせようとします。王から招かれた人々はきっと身分の高い立派な人であったでしょうが、この人たちは王の招待を拒んだために反逆者として処刑されてしまいます。次に王は街角に出て、つまり身分の上下に関係なく、また「善人も悪人も」つまり日ごろのおこないがよい人も悪い人も皆を招待します。たとえ話の最後の部分はわたしたちを戸惑わせますが、礼服を着けてこなかった人を王は外に追い出せ、と命令します。街角から連れてこられたのにいつ着替えることができるだろう、礼服を着てこなかったといって怒る王のほうがおかしいしいのではないか。そんな疑問も浮かびます。「善人も悪人も」招待したということですから、礼服を着けてこなかったことと罪人とは直接関係がなさそうです。礼服を着てこなかったことは、せっかくの招待にふさわしく応えなかったという意味でしょう。そうだとすれば、善人も悪人も区別なく招くこころの広い王とは、ここに集っているわたしたちの皆を同じように呼んでくださった神のたとえで、わたしたちもその呼びかけにふさわしく応えなければ、たとえの中の人のように空しい最後になるのでしょう。
死を滅ぼしていのちを回復しようとのイザヤのメッセージは、爆撃を受けて廃墟となった町、その瓦礫の山に身を潜めて食糧も無く苦しむ人々、悲しむ人々に向かって語られるものです。わたしたちに向かっては、イエスの語ったたとえのほうが当てはまるでしょう。神からの多くの恵みを受けてもそれに気づかず、無視し、応えようともしないならどのような最後の収穫の時となるか、注意しなさいというイエスのメッセージを真面目に受けとめるようイエスのたとえ話が呼びかけています。
「善人も悪人も」わけへだてなく招待する王が「礼服を着けてこなかった」という理由で外に追い出してしまうという、イエスのたとえ話のきびしい言葉は、終わりの時の喜ばしいいのちへの入り口が、今という時に神の言葉に従って生きるかどうかにかかっているという切羽づまったことの警告です。それにふさわしく応えるとは、神に信頼して今というこの時を生きるということです。それが信仰です。
健康に恵まれず、病気に悩まされて長年生きてこられたかたが、人生の経験を振り返ってこんな知恵を語ってくださいました。「健やかさとは、病気であるかないかではなく、神さまに賛美と感謝をささげることができる状態です。」ロヨラの聖イグナチオも祈りの手引書『霊操』の中で、「短命よりも長命を望むのではなく」、つまり短命であろうと長寿に恵まれようとそんなことにはこだわらずに、ただただキリストに従うよう勧めます。今日のミサの第2朗読で使徒パウロが言っています。「わたしは…物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださるかたのお陰で、わたしにはすべてが可能です」と。
実りの時を迎えて、今というこの時を大切にしましょう。神に信頼し、ふさわしく応えることができるよう、恵みの力を願い求めましょう。
